仕事が一段落したらとおもいつつ、なかなか区切りがつかない。先のことを見すえて、準備しておけばいいのだが、それがむずかしい。一日かけて部屋の掃除をしたい。何もせず、だらだらする日もほしい。
仕事をする前にせめて机(コタツ)のまわりだけでも片づける。それができないときはたいてい不調だ。あと町を歩く。歩いたからといって、とくに何か改善されるわけではないが、経験上、歩かないより歩いたほうがいい。
ここ数日、『植草甚一コラージュ日記 東京1976』(平凡社ライブラリー)をすこしずつ読んでいる。亡くなる三年前の日記(手書きの文字がそのまま印刷されている)である。散歩して、古本屋に行って、喫茶店で休憩して、買物して、原稿を書いて……というくりかえしの日々を綴っているのだけど、それがいいかんじなのだ。
《六月二十日(日)クラウディ。十一時に起き出して池波原稿ボツリボツリ。途中で金栄堂包装紙をつくる図案ネタをたくさんゼロックスにするため二階の文房具店へ降りて行く。それから外に出て遠藤書店で二冊(一二〇〇)買い、アパート前の「しゆう」でコーヒーを飲んで引っ返す。それから池波原稿をボツリボツリ。途中で引っかかると本の整理をすこしやり、またボツリボツリと原稿を書いた》
遊びながら仕事をするためにはこの「ボツリボツリ」ができるかどうかにかかっている。
翌日の日記には「ジャーナルのほうも締切りになったので出だしの部分だけ書いておく」という記述がある。
結局、一気に片づけようとするより、すこしずつでもできることをやっていくのがいちばんの近道なのかもしれない。
今から「ボツリボツリ」をやることにする。