先日、芥川賞を受賞した村田沙耶香著『コンビニ人間』(文藝春秋)を読んだ。
コンビニでアルバイトをしている三十六歳独身の主人公は対人関係や社会性に問題を抱えた人物である。
主人公の独特な思考や行動にたいする周囲の困惑を描くという構図はメルヴィルの『書記バートルビー』と似ている。ただし、バートルビーはコンビニのアルバイトはつとまりそうにない。
主人公はとんちんかんな会話のやりとりをしたり、場の空気が読めなかったりする。いっぽう彼女のコンビニでの働きぶりは勤勉そのものだ。またコンビニの仕事内容の描写は圧巻だった。
周囲の人たちは、彼女がずっとコンビニでアルバイトをしていること、三十六歳まで異性との付き合いがないことを不審がる。主人公の妹は姉にかわって言い訳を考えてあげたり、最低限の立振舞いを助言したりする。妹は姉の数少ない理解者である。
長年、風変わりな姉の言動は家族にとって悩みの種だった。以前、専門のクリニックにも通ったが「治らなかった」らしい。
家族が姉を「治したい」とおもう気持は否定しない。でもこうしたケースでは「治る」「治らない」ではなく、姉の「症状」にたいする「理解」を優先したほうがいい。
この作品の主人公のような人物への家族の無理解はよくある話だ。でも主人公の妹はそうおもえなかった。姉の理解者とおもいながら読んでいた。だから物語後半の妹の「反応」がひっかかった。姉がクリニックで診断してもらった過去があり、医師から何らかの説明を受けていたのであれば、もっとちがった「反応」になったのではないか。
単にわたしが作品に感情移入しすぎて、妹の「反応」に戸惑ったのかもしれない。こんなに作中の人物におもいをめぐらせるのはひさびさだ。
冷静に読めば、姉の「症状」が、妹の予想をはるかに上回っていたゆえの「反応」と解釈できる。
またわたしは「症状」と書いているが、作者はそのあたりの事情は用心深くぼかしている。一般論でいえば、主人公は「異常」なのかもしれないが、この作品では「正常」の側のおかしさも「公平」に描いている。
話は変わるが、『コンビニ人間』の主人公の(ぎこちない)成長は人工知能の進化と重なっているような気がした。
はじめのうちは多くの人が当たり前にできることすら、ほとんどできない。徐々に情報量を増やすことによって、できなかったことができるようになる。ただし、できるといっても、アプローチの仕方がまったくちがうから変なかんじになる。人工知能の場合、情報量が蓄積されるにつれ、特定分野においては人間の能力が凌駕するようになる。
『コンビニ人間』の主人公はコンビニ店員のエキスパートになることで自分が必要とされる居場所を見出そうとする。主人公や彼女のような人たちの未来が明るくあってほしい。そう願わずにいられない。