2016/08/31

自分に合った種目

 オリンピックを観ていると、ついつい人間の適性というものについて考えてしまう。
 陸上でいえば、短距離と長距離の選手ではからだつきがまったくちがう。

 甲子園を観ていてもよくおもう。ベンチ入りできず、スタンドから応援している強豪校の百人近い野球部の部員の中には、もし野球以外のスポーツを選択していれば、その競技のスター選手になれるような人がいるかもしれない。
 誤解してほしくないのは、レギュラーが偉くて、補欠がダメとおもっているわけではない。ただし、レギュラーになれる可能性があるジャンルを見つけることもひとつの道だとおもっている。

 自分に合った種目を見つけることの大切さはスポーツに限った話ではない。

 仕事にも短距離型と長距離型がある。もちろん中距離型もある。
 自分は仕事ができないとおもっている人は、自分に合った種目を見つけられていないだけかもしれない。また長時間労働が苦手という場合もある。

 わたしはフリーライターをしているが、二十代のころはノンフィクションライターになりたいとおもっていた。たぶん、その道では食べていくことはできなかった。
 取材がヘタだったし、人と会うのも苦痛だった。面識のない人に電話をかけることもできない。編集者や同業の先輩にも「この仕事、向いていないぞ」といわれた。自分でもそうおもうようになった。それでも「現役」を続けられているのは、競技人口の少ないジャンルに変えたからだとおもっている。

 出版の世界では「裏方」といわれるような仕事もやってきた(実は今もやっている)。「裏方」をしながら、自分に合ったジャンルを探していた。

 週三日くらい漫画喫茶に通い、自分にも仕事ができそうなところはないかと片っ端から雑誌を読んだ。そのころ、ある女性ファッション誌で叶姉妹(当時、叶三姉妹)という謎のユニットを知った。まだテレビに出る前だったけど、すごいインパクトだった。「最近、何かおもしろいことある?」というお決まりの質問を受けるたびに、わたしは叶姉妹の話をした。その結果、「そういう話、書いてみない?」と雑誌評の仕事をするようになった。

 人生、何が起こるかわからない。叶姉妹には感謝している。

未読の本

 週末、高円寺の阿波踊り。昼すぎ、太鼓や笛の音で目が覚める。祭りの音でラジオも聴こえないくらい。祭りの期間中、駅のまわりが人だかりができる。午後六時、七時くらいは駅のホームは人でいっぱいで改札を出るまで時間がかかる。

 神保町に行って、帰りは中野駅から歩いた。深夜〇時、中央線のガード下がまっすぐ歩けないくらい人がいる。飲み屋が通路にテーブルや椅子を出し、酔っ払いだらけだった。ガード下は、ここ数年でもいちばんの混雑かもしれない。

 阿波踊り期間中、西部古書会館で古書展も開催していた。最近、本を買うのが古書会館ばかりになっている。
 行きつけの古本屋の棚と自分の読みたい本の傾向が重なる時期と重ならない時期があって、今はズレまくっている。そういうことはよくあるので、あまり気にしない。重なろうが、ズレようが、西部古書会館で買った古本を読む。

 二日目の古書会館は、多くの古本好きが買わなかった本が残っている。初日の午前中に行ったほうが、古書価の高い本を安く買える。でも今、わたしが読みたい本はそういう本ではない。自分がこれまで手にとってこなかった本を読みたい。

 一九八九年の春に上京して、毎日のように本を買っていた。買った本の半分かそれ以上は手放している。手元にある「未読」の本を読むだけでも何十年かかるかわからない。
 自分が知らないこと、考えてこなかったことは何か——これまで手にとってこなかった本の中にその答えがあるのではないか。

 古書展の最終日の夕方に売れ残っている本の中にもおもしろい本はいくらでもある。そのおもしろさを見つけるのも古本屋通いの楽しみだ。

2016/08/25

気分転換

 郷里の家の問題が片づいて、東京に帰ってきてから、ずっと仕事の日々(オリンピックと甲子園を観て、夜、ラジオでプロ野球のナイターを聴きながらだが)。
 外に出たのは知り合いにチケットを譲ってもらい、新宿に『シン・ゴジラ』を観に行ったくらい。『シン・ゴジラ』は堪能した。映画館でゴジラの曲がサラウンドで聴けただけでもよかった。

 あと外出もよかった。もうすこし出かけないといけない。
 在宅で仕事をしていると、からだを動かしているわけではないのに、疲れがなかなかとれない状態になることがある。よくない兆候だ。
 これといった運動をしていない以上、散歩くらいはしたほうがいい。電車に乗って移動するのもいい。

 二十代のころと比べると、仕事にたいする耐性がついた。その分、無理をしてしまう。無理は気疲れの元になる。

 終わらない仕事の途中いくつか区切りを作り、喫茶店や飲み屋に行って気分転換する。というか、酒が飲みたい。

2016/08/16

自足と寛容

《限りある時間と労力は、好きなことに注いだほうがいい、無駄ではないが、得るものが少ない努力はしない――というのが、自分の生き方の原則になっている》

……と、書いたが、言葉足らずだった。好きなことをやって食べていけるのであれば苦労はない。わたしは家で寝ころんで本を読むことが好きだが、当然、それでは仕事にならない。

 大学を中退して、フリーライターになって食っていけなくなったらどうするか。温暖な土地に移住し、畑を耕し、鶏を飼い、お金をつかわない生活をしようとおもっていた。ようするに、将来のことは考えてなかった。

 橋本治著『ぼくらの未来計画 貧乏は正しい!』(小学館文庫)を読む。シリーズの最終巻だ。

《「“仕事”とはなんだろう?」ということになったら、「他人の需要にこたえること」である。需要がなかったら、“仕事”は“仕事”として成り立たない》

 とはいえ「他人の需要にこたえること」だけが仕事なのか。他人の需要にこたえつつ、自分がおもしろいとおもうこともできるのではないか。他人の需要にふりまわされて、自分を見失うこともあるのではないか。

『ぼくらの未来計画 貧乏は正しい!』では「自給自足」を理想とする考えに疑問を投げかけている。

 自給自足は不自然な禁欲状態を強制し、「貧しさを維持すること」で成立する。

《カツカツの自給自足が、自給自足の状態としては理想的なのである。だから、自給自足は排他的になる。他人のことを思いやれるほどの豊かさがないからこそ、“カツカツの自給自足”なのである》

 たしかに“カツカツの自給自足”では「他人」を受け入れることができない。
 二十代のころのわたしは自分がどうにか食べていければいいと考えていた。三十代になっても、最低限の生活費だけは稼いで、あとは遊んで暮らしたいとおもっていた。

 そうした理想は他人にたいする「不寛容」にもつながる。でも「寛容」な「自足」の道もあるのではないか。この問いは、「自給自足」だけでなく、今の必要最低限のものだけで暮らすことを理想とする「ミニマリスト」といわれる人とも無関係ではない。

低迷日記

 時間ができたら……とよくおもうわけだが、時間ができて何がしたいかといえば、部屋の掃除である。とくに本の整理がしたい。本が増えると本の置き場所がなくなり、本の置き場所がなくなると、本を買い控えるようになり、その結果、低迷した気分に陥る。常にそのパターンをくりかえす。十年前のブログから同じことを書いている。

 ちょっと夏バテ気味。オリンピックと甲子園をだらだら観ている影響もあるかもしれない。頭がまわらない。仕事が手につかない。

 橋本治著『ぼくらの資本論 貧乏は正しい』(小学館文庫)を読む。この巻は「相続」の話からはじまる。『貧乏は正しい』は三巻目がよすぎて、この巻は印象が薄かった。かなりおもしろい。

《相続とはなにか? 相続とは、「生きて行く方法を相続すること」だ》

 わたしは勤め人(工場労働者)だった父の「生きて行く方法」を相続していない。
 郷里にいたときは、不向きなことばかりやらされていて、それができないと「ダメ」だといわれることが多かった(その記憶も曖昧になってきているが)。
 まわりから「できない」「つまらない」とおもわれていると、ちょっとくらい努力したところで立場は変わらない。明るくふるまっても無理しているかんじになる。

 時間に縛られず、黙々とやる作業は苦ではない。共同作業は苦手だった。自分のペースが崩れると、簡単な作業でさえ、こんがらがってしまう。毎日のように罵倒される職場で仕事をしていたこともあるが、これまでわりとできていたことができなくなって、自分がどんどん無能になっていく気がした。

 人の能力は、環境に左右される部分も多い。
 郷里に帰省すると、車の運転ができなかったり、朝起きられないだけで役立たずに成り下がってしまう。
 ずっと不安定な生活を送っていたけど、自分の不得意なことを要求されない環境はほんとうにありがたい。

『貧乏は正しい!』連載時、わたしは大学生で、二十二歳のときに橋本治の合宿に参加している。
 それからしばらくして大学を中退した。「生きて行く方法」がわからず、途方に暮れたこともあったが、限りある時間と労力は、好きなことに注いだほうがいい、無駄ではないが、得るものが少ない努力はしない——というのが、自分の生き方の原則になっている。

2016/08/13

三重と京都

 八月九日、吉祥寺SCARABで「夕涼み『オグラ三弦楽団』リサイタル」を観る。オグラさん、ピアノが原めぐみさん、コントラバスは新井健太さん(東京ローカルホンク)という「オグラ文化祭」でおなじみのメンバー構成。いいライブだったですよ。音楽の中にオグラさんが考えたこと——変わらない部分も変わった部分がつまっている。いろいろな音楽がまざりあい、「円熟」や「洗練」もされているのだけど、それ以上に「変」や「不思議」に磨きがかかっている。

 十日、三重に帰省。凍結されていた父の銀行口座の問題がようやく解決する。
 鈴鹿ハンターのゑびすやで天ぷらうどんを食い、二階のステップで衣類を買う。ハンターの近くにぎゅーとらというスーパーもできていて、大黒屋光太夫あられ(北野米菓)も買った。
 母に鈴鹿ハンターができる前は、どこで買い物をしていたのか訊く。ハンターはわたしが幼稚園のときにできた。それ以前の記憶がない。
「ハンターの前は平田駅前にジャスコがあった」「個人で野菜や魚を路地で売っている人もいた」
 ハンターのすぐそばにはアイリスというションピングセンターもあったが、いつの間にかなくなった。
 夕方、港屋珈琲でアイスコーヒーを飲む。行きの新幹線からずっと橋本治著『ぼくらの東京物語 貧乏は正しい!』(小学館文庫)を読み続ける。名著だ。三重を離れて二十七年のあいだに自分が通っていた喫茶店はなくなった。ドライバーという喫茶店で父は毎週のように通っていた。焼いたトーストに卵焼きをはさんだ卵トーストサンドが絶品だった。あとチャーハンも美味しかった。

 夜、テレビでナイター(ヤクルト中日戦)を見る。副音声でサカナクションの山口一郎が出演していた。中日ファンだったのか。知らなかった。
 朝七時くらいまで眠れず、起きたら昼。母に怒られる。
 近鉄電車で白子駅でいったん降りて、海を見る。それから特急で丹波橋まで、京阪に乗り換え出町柳に着いたのは夕方四時すぎ。下鴨古本まつりに行く。そのあと六曜社でコーヒーを飲んで、高瀬川のベンチで汗だくになったシャツを着替えてぼーっとしていたら、林哲夫さんと会う。ディランセカンドで善行堂の山本さんの還暦祝い(?)のイベントの二部に出席した。
 クジ引きがあって『京阪神 本棚通信』をまとめた冊子(山本さんの連載「天声善語」も所収)が当たった、というか、選んだ。

 そのあとレボリューションブックス(お酒が飲める本屋)で、扉野良人さん、東賢次郎さん、世田谷ピンポンズさんらと飲む。世田谷さんから『勇者たちへの伝言 いつの日か来た道』(ハルキ文庫)の増山実さんを紹介してもらう。
 チューダー、トキワ荘のキャベツ炒めなどのメニューがある(チューダーは売り切れだった)。

 この日は久しぶりに東さんの家に宿泊。あいかわらず、秘密基地みたいな家だ。住みたい。
 翌日、カナートまで東さんに送ってもらい、スガキヤのラーメンを食う。なぜ京都に来てまでスガキヤなのか。それから善行堂に寄る。自著にサインすると、山本さん、たまたま来ていたお客さんにサインしたばかりの本を売る。うらたじゅんさんの大きな絵を見る。ところどころ『sumus』の同人らしき人物も……。

 進々堂でアイスコーヒーを飲んで京都駅。新幹線で東京に帰る。車内で『勇者たちへの伝言』読みはじめ、止まらなくなる。主人公は父といっしょに西宮球場に行って、阪急ブレーブスのファンになる。
 しかし西宮球場もブレーブスもなくなってしまう。「勇者たち」は「ブレーブス」、副題の「いつの日か来た道」も別の意味がある。かけがえのない記憶を結晶化している。わたしも父といっしょに野球を観に行ったときのことをおもいだした。

2016/08/08

言葉があれば

 神保町で仕事、そのあと馬橋盆踊りに行く。高円寺駅から会場に直行し、ラスト十五分、汗だくになる。ひさしぶりに外飲み(といっても水割三杯)。お盆進行で酒を控え気味だ。ひまになりすぎないていどにのんびりしたい。

 日曜日、古書会館。暑い(会場の外)。十五、六年前の野球本が安くたくさん出ていた。

 自分の年齢が五十歳が近づいてくると、ふと「百年ってだいたいこの倍か」とおもう。若いころと比べると、百年、二百年といった歴史が理解できるのではないかという気がする。錯覚かもしれないが。

 中村光夫が四十代以降、文学よりも歴史に興味が向かうようになったというようなことをいっていたが、その気持もわかるような気がする。
 十代、二十代のころのわたしは、そのときどきの自分の心理状態、感情をあらわす言葉が足りなかった。言葉が足りなくて、何が何だかわからず、もやもやしたり、苛々したりすることがよくあった。

 フリーライターが仕事のない時期は無職と変わらない。貯金を切り崩し、本やCDを売って、売るものがなくなったら、アルバイトを探す。
 そういう時期に「就職しろ」とか「だから、おまえはダメなんだ」といわれると返す言葉がない。弱っているときに自分を否定する言葉を浴びても何もいいことがない。むしろ害悪にしかならない。

 言葉をたくさん知っていれば、楽になるというわけではないが、ないよりはあったほうがいい。

2016/08/01

ブログ十年

 二〇〇六年八月からブログをはじめて十年になる。当時、わたしは三十六歳。最初の単行本の刊行が、翌年の五月——当初は本のための未発表や未完成の原稿の整理とデータのバックアップも兼ねてブログを開設した。だから最初は非公開だった。

 高田馬場の居酒屋で古書現世の向井さん、「退屈男と本と街」の退屈君と飲んでいたとき「ブログを書きはじめた」といったら、ふたりに公開したほうがいいと勧められ、その日の晩に公開した。

 最初は書き下ろしのエッセイを中心に発表していたのだが、途中から日記とエッセイの中間みたいな文章になった。
 今は仕事の原稿にとりかかる前のウォーミングアップがわりにテーマを決めずに書くことが増えた。要は、素振りや走り込みみたいなものだ。

 商業誌の仕事は文字数の制約があるから書きたいことを書き切れない。昔からわたしはどうでもいい話(その日の体調とか弱音とか)から書きはじめて、推敲のさい、その部分を削ることが多かった。自分としては削ってしまう部分にも愛着がある。

 わたしは八百字くらいの短い原稿を書くのが好きなのだが、不特定多数の読者、自分のことを知らない読者を想定した原稿では、「主観」を薄めて書く。しかし、そういう原稿ばかり書いているとなんとなく欲求不満になる。どうでもいいことが書きたくなる。

 何を書くか決めず、だらだらと書きはじめ、どこに行き着くかわからない——というかんじの文章も書いてみたい。書きながら考える。考えながら書く。途中で行き詰まったら「続く」にすればいい。何かおもいついたら、また書けばいい。無理して書くことだけはやめようとおもっている。

 とりあえず、十年だ。今、四十六歳。十年後、どうなるかわからない。高円寺にいるかどうかもわからない。この先、ブログというサービス自体、存続しているかわからない。振り返ると、ずっと低迷していた気もするが、ブログを十年続けることができた。この十年で成長したかどうかはわからないが、わたしの目標は書き続けることなのだ。誰かに「やめろ」とか「つまらない」とかいわれても、わたしは続けたい。本が売れる。仕事の依頼がたくさんくる。そうなったら嬉しいけど、そういう目標は自分ではどうにもできない部分も多い。

 でも続けるかどうかは(ほぼ)自分次第だ。持続を目標にしていれば、そんなに大きくは間違えないとおもっている。

……というわけで、まだまだ続けるつもりだ。