すこし前に、串田孫一の『日記の中の散歩』(講談社、一九八三年刊)を買ったのだが、積ん読になっていた。
この本に「整頓」というエッセイがある。古本屋で立ち読みしていたとき、この文章をじっくり読みたくて買った。
《私の日記には、始終、部屋を整頓しなければならない、これでは仕事の能率が低下するばかりだということが書いてある》
わたしも掃除がしたい、本と資料の整理がしたい——ということをよく書いてしまう。物欲よりも、整頓欲のほうが強い。といって、きれい好きではなく、適度に、机のまわりに本が散乱しているくらいが心地いい。ところが、適度な散乱を維持することがむずかしい。
あっという間に本の山が二列三列と増え、そのうち足をぶつけたりして、本が崩れる。崩れた山を元に戻しても、どうせまた崩れる。今、やる気をなくしている。
《すべてのことをきれいに整頓してしまえば、何かをする意欲がなくなってしまうような気もするが、こんなに散らかし過ぎた中にいては、これもまた極めて能率が悪く、何の意欲も湧いて来ない》
《考えてみると、小学生の頃に六畳の畳の部屋の隅に机を一つ置いて貰ったその時から、かれこれ六十年、机とその周囲を整頓することにずっと追われて来たような生活であった。今更もうどうしようもないが、奇妙な生き方をして来たものだと思う》
ものを減らさないと片付かない。
蔵書の整理はけっこう頻繁にやっている。どの本を売ってどの本を残すか、その仕分けはけっこう時間がかかる。ヘタすると数日かかる。仕事に支障が出る。
本を手にとる。たぶんこの先読み返さないだろうとおもって、本の後ろのほうを見ると古本屋のシールが貼ってある。今はない店、旅先で寄った店……いろいろ記憶がよみがえる。生活が苦しかったときに買った本も手放すのに抵抗がある。
上京して二十八年、本の整理ばかりして暮らしている。整理整頓はキリがない。