野見山暁治の『うつろうかたち』(平凡社)に「手探りが終わったとき絵が終わる」という言葉が出てくるのだが、なんとなく、「絵が終わる」の「終わる」を「ダメになる」みたいな意味かと一瞬勘違いしてしまった。
別に野見山さんはそんなことはいっていない。
《ぼくの中に、何かはっきりあって、これを描こうと思うんだけれども、それはこういうものじゃなかろうか、ああいうものじゃなかろうかと思いながら追いかけていっている。絵を描くというのは、そういうことだろうと思う。
じゃあ、これは完成と言われたら、完成ということはないので、手探りの状態で、いま、この絵についてはこれ以上手探りできないんですというところでもって、終わりにしている》
手探りできないところまで描いたら、いちおう終わりということにする。
ものを作ることにキリがない。何をもって「完成」とするか。文章だと、直そうとおもえば、あとからいくらでも直せる。どこかで「これでいい」という決断をしないといけない。二十代のころは、なかなかそういう決断ができなかった。短い原稿を一本書くのに、ものすごく時間がかかった。
手探りせず、ぱっと書けたらいいのだが、そうなったらつまらないのかもしれない。ただ、ずっと手探りを続けるよりは、どこかでけりをつけて、どんどん次の作品にとりかかったほうがいいのではないか。
今のわたしはそう考えている。