二十代後半から三十代の前半にかけて、年がら年中、文学や音楽の話をしていた旧友と久しぶりに飲んだとき、「(いろいろ本を読んできたけど)結局、私小説に戻るんだよなあ」といっていた。
これまでも私小説が好きな理由をあれこれ書いてきた気がするが、読み慣れた作家の本を再読するのは精神安定剤のような効能があるような気がする。
もちろん、私小説作家であれば、誰でもいいというわけではない。
わたしは破滅型よりは調和型の作家が好みで、困ったときはその調和型の代表格の尾崎一雄の作品を読み返す。
高松の本屋ルヌガンガで福田賢治さんとトークショーをしたときに会った若者が書いている「ボログ」というブログを読んでいたら、こんな一節があった。
《尾崎一雄「ある私小説家の憂鬱」読み終える。
「口の滑り」という話に古本屋の関本良三という人物が出てきたので、あれ?と思い調べてみたら、「昔日の客」の関口良雄がモデルのようだ》
今、尾崎一雄の私小説を読んでいて、「関本良三=関口良雄」に気づく人は日本中探してもそんなにいないとおもう。
岡崎武志さんの『古本病のかかり方』(ちくま文庫)の「視力がよくなる」でも似たような話を書いている。
《知識が増えていくと、それに比例して目が拾う情報も増えていく。極端なことを言えば、以前には見えなかったものが、のちに見えてくるようになるのだ》
こうした「古本の視力」が何かの役に立つのかといえば、正直、わからない。
読書にかぎらず、知識が増えたり、年を重ねたりするうちに、いろいろな発見がある。
「口の滑り」では尾崎一雄の二歳年上の大崎五郎という先輩作家も出てくる。たぶん「大崎五郎=尾崎士郎」だろう。
ちなみに、尾崎一雄と尾崎士郎の娘はたまたま「一枝」という名前でよく間違えられた。