毎年「冬の底」と名づけている時期がある。一月の終わりから二月のはじめのあいだの数日、頭の中がもやに覆われたようになり、気力がゼロに近くなる。寝ても寝ても眠く、朝七時ごろ寝て夕方ちょっとだけ起きてまた寝て夜の十時ごろ起きるといったかんじになる。
例年一日か二日かくらいで過ぎ去り、すこしずつ調子が戻ってくる。「また今年も来たか」と諦めるしかない。完全休養日と割り切っている。
昨年は一月二十四日から二十五日にかけてがそうだった。「頭蓋骨に膜がはっているかんじがして頭がまわらない」と書いている。
近年では「夏バテ」ではなく、「冬バテ」という言葉もあるようだ。気温の低下、寒暖差による疲労などが原因といわれている。
解決策は栄養と休養しかない。不調のときに焦らないこともすごく大切だ。誰にだって調子のよくない時期はある、よくあること——とおもうことにしている。
津田左右吉の「日信」一九二六年一月分をパラパラ読む。
《カアテンをあげて、ガラスごしの日光を背に浴びつゝ読書をしてゐると、からだだけは春にあつややうにあたゝかであるが、手さきがつめたい。(中略)あたゝかいやうな、寒いやうな、調子の整はぬ感じが自分を支配している》(一月四日)
《カアテンを少しおし開けて、そこから入つて来る日光をからだに受けてゐると、非常にあたゝかい気がする。ちやうどすきま風がひどく寒く感ぜられると同様である。人間の幸福もこんなものではないかと思ふ。幸福は小さいがよい。せまい窓からさし込む明るい日光と同様、生活のどの部分かにそれが感ぜられるだけの程度のがよい》(一月七日)
冬のあいだ、津田左右吉はカーテンの隙間からの日向ぼっこをするのが好きだった。ここ数日、カーテンを開けてなかったことに気づく。
《せなかに日光をうけて机に向つてゐると、うとうととねむくなる。眼をあけてゐるでもなし、閉じてゐるでもなし、半ばゆめみごこちでゐると、此のせまい部屋が限りなく広い世界のやうでもある》(一月二一日)
《目がさめたまぎはにはもう少しはつきりしてゐたが、いま書こうと思ふと、殆ど書けない程にぼんやりしてゐる》(一月二十八日)
《仕事にも考へることにも気分といふものがある。それは一つの調子である。調子の無い音楽が成り立たぬやうに、気分の整わぬ仕事は出来ない。今日の僕は調子のない楽曲を作らうとするやうであつた》(一月三十日、三十一日追記)
津田左右吉のような大学者でもこんなかんじで苦労していたことを知ると安心する。
インターネットで「冬バテ」対策を検索したら、肉を食べたほうがいいとあり、 夜、豚バラとしょうがをたっぷり入れたとん汁作る。食べたらすこし元気が出た。