木曜日夕方神保町。神田伯剌西爾でマンデリン、家に帰って三時間くらい寝て朝まで仕事する。
鮎川信夫の『最後のコラム』(文藝春秋、一九八七年)に古井由吉の『「私」という白道』(トレヴィル)の感想を述べたコラムがある。鮎川信夫が私小説について論じているのだが、深く頷いてしまう内容だった。
葛西善蔵とその心酔者について「有用なことは一切ダメだが、かかわりあった女を不幸にすることなら誰にも負けないぞという、ヘンな勇者が結構いたのである」と述べる。
そして日本の文学史の裏面に「現実に負けてもへこたれない連中」がいたことを懐かしむ(褒めているわけではない)。
《一言でいえば、彼等の文学は「失敗」の讃美である。世の成功に対する強い不信が根底にある。人を惹きつけるのも、人を逸らすのも、そこを基軸としている。どのみち、人生に正解はないというおかしな確信。成功も失敗も等しく仮象である。どう転んだところで人間に変りはないという諦念乃至無常観が、その支えになっている》
すこし前に青森県近代文学館の『葛西善蔵 生誕130年特別展』のパンフレットを『フライの雑誌』の堀内さんが送ってくれた。
同パンフレットには全集未収録の「帰郷小感」(『青年』大正十三年九月)も全文掲載されている。
父の三周忌に郷里に帰った葛西善蔵は「或る特殊な思想」を持った何人かの青年たちと会う。
《君等は恵まれてゐる青年達だ。君等の思想にも理解は持てる筈なんだが、同時に地方教育のため、産業のため、大ざつぱに云へば、文化のために小反抗を捨てゝ、和衷協同の大道に立つて貰いたいものだと僕は涙を持つて言ひたいのである》
葛西善蔵にもそういうおもい(だけ)はあった。いろいろな意味でもらい泣きしそうになる。
年に何日か私小説しか読めない日がある。何もする気になれない日に失敗の結晶のような作品を読むと妙に安心する。それにしても「現実に負けてもへこたれない連中」っていい言葉だなあ。