土曜日、荻窪散歩。家を出たら傘がいらないくらいの小雨だった。古本を買うかもしれないので傘を持って行く。
四月半ばくらいから、蔵書の整理をやっていて、仕事部屋の本を減らした。レコードとCDも減らした。今年の秋で五十四歳、来年は五十五歳——昔のサラリーマンなら定年という齢も近づいて、仕事部屋もいつまで借り続けるかわからないなとおもい、今年一年くらいかけて本を減らすことにしたのだ。
街道関係の図録や大判の本が増えたせいで仕事部屋の小窓が開けられなくなっていたのでそれもなんとかしたい。本の背表紙が見えない状態は精神衛生によくない。
《年をとって読書力は非常に衰えたし、小さな活字を夜読むということがうるさくなったので、書物の数をこなしてゆく速さは鈍ったが、本がほしいと思う心持は大して弱まらないらしく、結局、読まない本、主として古本を、沢山買って机のまわりに積んでゆく》(「古本のこと」/福原麟太郎著『書齋の無い家』文藝春秋新社、一九六四年)
一九六二年あたりに連載していた随筆だから、福原麟太郎、六十八歳くらいか。
わたしは五十代の入口あたりから読書量が減った。地図を見る時間が増えた。以前より、散歩したり、料理をしたり、のんびり過ごすことに時間を割くようになった。
自分を律し、制御できる人に憧れる。昔の文士の中には、自分の感情を制御できず、周囲に当たり散らし、自己嫌悪に陥って……みたいな人も多かった。中原中也にしても喧嘩に明けくれていた四谷花園アパート時代は二十代後半だったし、何より郷里の親から同世代の勤め人の給料以上の仕送りをもらっていた。それで働かないと食っていけない同業者たちに「おまえらはダメだ」と絡みまくる。酒に飲まれ、睡眠薬に溺れ、錯乱しまくっていたころの太宰治にしても、今のわたしより一回り以上若い。
自己制御不能に陥ってしまう人は努力や修業でどうにかなるわけでもなく、どうしようもなく、そうなってしまう。昔は性格の問題だと考えられていたが、脳の機能の問題と解釈したほうが納得がいく。
たまに銀行の窓口、スーパー、コンビニのレジなどで、キレ散らかしているおっさんを見かけるが、あれは前頭葉の萎縮など、加齢による脳の機能の低下(障害)が原因といわれている。つまり、五十代あたりで急に怒りっぽくなった場合、病気の疑いもある。
酒の席で怒りまくっていた自分より十歳くらい年上の同業者のことをおもいだす。アル中ではないかと疑っていたが、脳の病気だった可能性もある(もうこの世にいない人の話である)。
静かに穏やかに年をとる。けっこうむずかしいことなのだ。感情を抑えるには体力もいる。体力が低下すると、酒の酔い方もひどくなる。そのあたりも今後の課題である。