2023/05/25

下落合

 最近といってもこの二週間くらいのことだが、電車で高円寺と神保町を行き来する日(週一回くらい)に小野寺史宜著『銀座に住むのはまだ早い』(柏書房)をすこしずつ読み続けている。今年二月刊行の二十三区(二十三回分)の町歩きエッセイで電車の中と喫茶店で一区ずつ読んでいて面白い。著者は一九六八年生まれ。世代も近いし、最初の本が出た年齢も近い(三十代後半)。単行本の元になった文章はリクルートの「SUUMOタウン」の連載だった。
 昨日は新宿区の下落合のところまで読んだ。読み終えるのが惜しくてゆっくり頁をめくる。

《降り立った下落合駅は、それ自体が神田川と妙正寺川に挟まれている。そもそも、二つの川が落ち合う場所ということで、落合、となったらしいのだ》

 わたしは高円寺から野方に向う途中、妙正寺川沿いをよく歩く。落合あたりから東中野までの神田川の遊歩道も好きだ。

 東京の小さな川沿いの道を歩くのは楽しい。そんなに自然豊かな感じではなく、コンクリートで護岸された川なのだが、緑に囲まれていて、ゆっくり歩ける。いい気分転換になる。
 下落合の回では七曲坂も出てくる(昔、わたしは迷った)。小野寺さんは(たぶん)事前にそんなに下調べせず、にぎやかなエリアよりも、ちょっと人の少ない寂しそうなほうを歩きがちで、そのあたりの感覚が読んでいて心地いい。このエッセイに出てくる喫茶店にすごく行きたくなる。

 いちおう部屋探しが目的の二十三区歩きなのだが、途中から関係なくなる。歩きたいように歩く。

 四十代半ばくらいから、人生の一回性についてよく考えるようになった。若いころのような「人生一度きりだから(好きなことをしよう)」といった感覚ではなくて、季節の移り変わりや知らない町の風景、あるいは飲み屋や喫茶店で何てことのない雑談をした後の余韻みたいなものが、妙に胸に迫ってくる。
 七年前の五月に父が亡くなったことも関係しているかもしれない。時間は有限であり、自分の体も今まで通りに動くとはかぎらないんだなと……。自分の足で歩くこと、酒が飲めることも健康だからできるのだ。
 長年、本に埋もれる生活をしてきたが、町のこと、自然のこと、そして人間のこと、わからないことだらけである。現実の一日一日を大切に生きてこなかった。

 小野寺さんのエッセイに出てきた妙正寺川は、うちからだと徒歩十分ちょっとなのだが、どこからどこまで流れているのか知ったのはわりと最近である。荻窪から落合まで。十キロもない。そんな小さな川のそばに井伏鱒二、阪田寛夫、古木鐵太郎、耕治人、福原麟太郎、さらに尾崎一雄や林芙美子が暮らしていた。

『銀座に住むのはまだ早い』の杉並区の回では善福寺川を歩いている。