2007/04/04

荒地の遺産

 黒田三郎を読みながら、老いと死の問題を無視して、ひとりの人間の一生をとらえることはできないとおもうようになった。
 鮎川信夫の晩年にしても、二十代のころの自分の理解がまったくアテにならないことに気づいた。そうなってくると、ほかの作家についても読み返せば、誤読がいろいろ判明するにちがいない。どこから手をつければいいのやら……。

 わたしは一冊の本があったとして、その中で、自分のいちばん共感できるポイントを探し、それをもとにその人物の物語をつくってしまう癖がある。黒田三郎であれば、喪失感、あるいは卑小感といったキーワードがある。そのキーワードで人物像を組み立てる。でも当り前だけど、それでは黒田三郎にはならないのである。
 もちろん本を自分勝手に読みたいように読むのはありだ。黒田三郎の詩から、黒田三郎のことを考えるのではなく、自分のことを考えればいいとおもっている。でも今はそれだけではもったいない気がする。そのくらい黒田三郎の存在はおもしろい。

《うかうかしているうちに
 一年たち二年たち
 部屋中にうずたかい書物を
 片づけようと思っているうちに
 一年たった

 昔大学生だったころ
 ダンテをよもうと思った
 それから三十年
 ついきのうことのように
 今でもまだそれをあす
 よむ気でいる

 自分にいまできることが
 ほんの少しばかりだとわかっていても
 でも そのほんの少しばかりが
 少年の夢のように大きく
 五十歳をすぎた僕のなかにある》(「あす」/『定本黒田三郎詩集』)

 自分が五十歳をすぎたとき、こんなふうにおもうのだろうか。
 すこし深読みすれば、この「あす」という詩で、よもうと思って読めないままになっている本は「ダンテ」でなければならない。
 五十歳をすぎて、黒田三郎は大学生だったころの詩の仲間とずいぶん生活も思想も離れてしまった。
 鮎川信夫は「詩の機能について」(荒地同人編『詩と評論1』国文社)というエッセイで、「T・S・エリオットは、現代において最も深くダンテを讀み、ダンテの影響を強く受けた詩人」だったと書いている。

 黒田三郎が「詩の難解さについて」で、「ヨオロッパやアメリカの絢爛たる藝術運動に並んで作品を示している日本の詩人が、ひと度、自分の身の廻りの現實に詩の素材を求め、或いは、自分について語るとき、まるで調子を合わせたように示す日本的貧困さというものを見逃すわけにはゆかないのである」と批判し、鮎川信夫は「詩の機能について」で、「ダンテの『神曲』を理解するのは、バイロンやハイネを理解するほどたやすくないし、ながい詩的體験によつて徐々に理解される詩もあるわけである」と主張した。

 かなり早い時期から、鮎川信夫と黒田三郎の価値観は食い違っていた。
 そうかんがえると、「あす」という詩は、「おれはまだダンテのことを忘れていないよ」という鮎川信夫への黒田三郎のメッセージのようにおもえる。わたしはそう読みたい。

《「荒地」の基盤とは、戦前から続いていた、新しい詩を書こうとしてそれぞれがやってきた仕事をお互いが見つめあうことだった。そこから生まれる一種の遺産のようなものが、永く記憶するに足るものとして、お互いに交換されてきた作品の連鎖のうちがわで形成されてきた。いわば文学的に表現された精神的な遺産といえるものである。これを誰がつくった、どんな形のものであるとは簡単にはいけない。しかし確実に自ずから成る価値として遺ってきているのである》(「風俗とどう関るか」/鮎川信夫著『疑似現実の神話はがし』思潮社)

 「荒地」には「相互酷評集団」というだけでなく、そういう一面もあった。
 しかし黒田三郎の「あす」という詩が発表されたころ、「〈荒地〉の共同理念が彼の内部で無効化していった」(北川透著『荒地論』思潮社)と見られていたのも事実だった。

 黒田三郎の詩は、新しい詩でもない。身辺雑記のような軽い詩になってゆく。でもそれはそれで、重厚な詩を書く鮎川信夫という存在がいたからこそ、黒田三郎は軽い詩の世界に向ったのではないか。
 憶測だけど、黒田三郎からすれば、鮎川信夫、あるいは田村隆一とはちがう詩の世界を築きたかったのではないか。

《二十何年も勤めなれた
 会社へ行く以外 この人生に
 行くところがないなんて
 一日会社をさぼっても
 明日はまた行かねばならぬ
 二日さぼっても同じこと
 五十歳をすぎて
 いま僕は愚かにも秤にかける
 そこで得た多くの金銭と
 そこで失った目に見えぬものとを》
(「ひとりの個人」抜粋/『定本黒田三郎詩集』)

 たぶんこういう詩は鮎川信夫や田村隆一には書けない。『荒地』の中から、こういう詩をつくる詩人が生まれたことで、「荒地の遺産」はより豊かになったともいえる。
 黒田三郎が失った目に見えぬものを失わなかった詩人がいたとしても、その詩人には黒田三郎のような詩はつくれない。

 わたしは黒田三郎の詩を読みながら、考えさせられる。
 多くの金銭を得なかったかわりに、なにを得てきたのか。自分が失ってしまったものはなにか。うかうかしている間に時間ばかりがすぎてゆく。