2007/04/08

ライトヴァース

 生活の基本は現状維持なんだなあとおもう。とはいえ、現状維持に徹していると、だんだん身動きがとれなくなってくる。むしょうに引っ越しがしたくなる。でもそういう気分になるのは、ちょっと疲れているだけなのだ。一日のんびりして、一日掃除をすれば、だいたいおさまる。
 ところが、すきまがあれば本をいれてしまうように、空いている時間があれば予定をいれてしまう。
 もうすこし時間のやりくりを考えないといけない。

 この間、黒田三郎の本を読んでいて、そこから派生して、たくさん読みたい詩人が出てきた。黒田三郎に「今の世に詩人らしい詩人というのは、ひっそりと京都に暮らしている天野忠ひとりではないかというふうに、僕は考える」とまでいわれたら、そりゃあ天野忠の詩を読み返したくなるよ。

 黒田三郎も天野忠も「ライト・ヴァース(light verse)」といわれる軽くてやわらかい詩を書く詩人だった。そうなると「ライト・ヴァース」の詩人の作品もひととおり読んでみたくなる。
 たとえば、杉山平一、菅原克己、辻征夫の詩も「ライト・ヴァース」だろう。

 平易なことばで書かれた詩を読むと、わたしはよく赤面してしまう。ほら、やさしいでしょ、純粋でしょ。そんな作者の性根が透けてしまうのである。
 文章はわかりやすくても、天野忠の詩は、とても難解だ。何通りにも読める。読むときの気分によって、あるいは自分の読解力に応じて、その印象もかわる。ただ簡単な言葉で書くのではなく、言葉にならない気分をわかりやすい言葉で表現する。ほんとうにすごい「ライト・ヴァース」はそういうものだ。


《あなたの詩は
 よく利く薬のように
 はげしい副作用がある。
 だから用心して
 時間を置いて
 ほんの少量をたしなむ。

 あなたの詩は
 おだやかな薬のように
 利きめは薄いけれど
 つよい副作用がない。
 だから安心して
 長く服用する。

 あなたの詩には
 全く副作用がない。
 しかし、残念なことに
 本作用もない。
 だから
 服むこともない。》
    (「エピローグ」/『天野忠詩集』思潮社現代詩文庫)


《あたまをかかえていたいときがある
 両手で顔をおおつていたいときがある

 義務と気取りと約束とお世辞に
 わたのように疲れて
 家路につく途中の
 暗い道をゆく五分間

 子供も寝て 妻も眠り
 一人眠りにつくまでの五分間

 ああそれらわずかなひととき
 そのとき私は私であり
 私は私と話すのだ》
   (「五分間」/『杉山平一詩集』土曜美術社)


《やさしい人がいて、
 ぼくが年をとっているというので、
 しきりに慰めてくれる。
 ——老年は、ほんとうは
 いちばん豊富なのだ、
 稚いときからのいろんな人生が
 いっぱいつまっている、と。

 そうなのか、
 それはどうも、と
 ぼくはちょっとまぶしそうに答える、
 何かいい贈りものでももらったように。
 そう思えば
 そう思えぬこともない。
 そう思えぬこともないのだ……。》
  (「年月の贈りもの」抜粋/『菅原克己詩集』思潮社現代詩文庫)


《こころぼそい ときは
 こころが とおく
 うすくたなびいていて
 びふうにも
 みだれて
 きえて
 しまいそうになっている

 こころぼそい ひとはだから
 まどをしめて あたたかく
 していて
 これはかぜをひいているひととおなじだから
 ひとは かるく
 かぜかい?
 とたずねる

 それはかぜではないのだが
 とにかくかぜではないのだが
 こころぼそい ときの
 こころぼそい ひとは
 ひとにあらがう
 げんきもなく
 かぜです
 と
 つぶやいてしまう

 すると ごらん
 さびしさと
 かなしさがいっしゅんに
 さようして
 こころぼそい
 ひとのにくたいは
 すでにたかいねつをはっしている
 りっぱに きちんと
 かぜをひいたのである》
   (辻征夫著『かぜのひきかた』書肆山田)


 こういう詩の世界にずっとひたっていたい。でも今は仕事に追われている。せっぱつまっている。詩を読むあたまと仕事をするあたまは同じではない。その切り替えがむずかしい。

 おだやかな「ライト・ヴァース」にもちょっとした副作用はある。

(追記)
 今回紹介した天野忠や杉山平一の本をたくさん手がけている編集工房ノアが梓会出版文化賞特別賞を受賞しました。涸沢さん、おめでとうございます。