昨日、仕事から帰ってくると、郵便物が届いていた。インターネットの古本屋で注文した黒田三郎著『赤裸々にかたる 詩人の半生』(新日本出版社)だ。
ちっとも「赤裸々」にかたっていないと鮎川信夫が酷評していた本ではあるが、もともとの連載のタイトルは「とはずがたり」なのだがらしょうがない。
黒田三郎は、本のタイトルのつけ方があまりうまくない気がする。『死と死のあいだ』(花神社)にしても、せっかくいい本なのに、この題だとちょっと買う気がしない。
そもそもわたしが『荒地』の詩人に興味をもったのは、十五、六年前、鮎川信夫のコラムや対談を読み、「世の中にはこんなに明晰にあらゆる事を分析できる人がいるのか」と打ちのめされたことがきっかけだった。自分が六十歳になったころ、こういう文章が書けるようになるためには、どうすればいいのか。すごいとはおもうが、どのくらいすごいのか、当時のわたしにはまったく見当がつかなかった。晩年になって、鮎川信夫はこれまでたくわえていた力を一気に放出したようなかんじもした。
とにかく、一歩一歩登っていかないと、その頂上は見えない。
鮎川信夫はわたしにとって仰ぎ見る山のような存在だった。
鮎川信夫の『自我と思想』(思潮社)の黒田三郎の追悼対談のさいの巻末付録の「書き下ろし解註」に、「私は、ひどく憂鬱だった」「長期にわたるスランプ状態が極点に達していた」というような箇所がある。昔、読んだときはそれほど気にとめていなかったが、今回はとても気になった。
鮎川信夫は、六十一歳で詩をやめようとおもっていた。それから詩人の鮎川信夫は、コラムの鮎川信夫になった。
『時代を読む』の帯には「コラムの金字塔」と書かれているが、この帯の文句に偽りはない。
『最後のコラム 鮎川信夫遺稿集103篇』(文藝春秋)の解説で向井敏は「『荒地』の詩人としての名声は名声として、その知力の透徹と社会認識の確かさはむしろこの『時代を読む』において本領を発揮した」と記している。
《鮎川信夫の批評、わけても「時代を読む」で行った一連の批評は、批評として自立したものであって、詩の才能の支えを借りなくてはならないような、あるいは詩に収斂されてしまうような半端なものではなかった》
いっぽう鮎川信夫、吉本隆明著『全否定の原理と倫理』(思潮社)では、鮎川自身、『時代を読む』で行っている批評について次のように語っている。
《鮎川 あのねえ、最近一つだけ自分で変わったなと思うことに、間違いってものをやりたくなったってことはありますね。おかしな言い方だけど、とにかくぼく、間違いってことはやってないんですよ。戦争中からずっと続いて一ぺんもやったことがない。もし間違いがあったらどっからでもかかってこいと言えるくらいやってないわけ。だけどそれには一つの秘密があって、ぼく自身が一種の受動態なんですよ。だから間違うかもしれないってとこには足を出さない。だけどそんなのちっとも感心したことじゃないということに近頃気が付いたんだよ。だってみんなすごくいい加減なことを平然とやって、その割にはしゃあしゃあとしてるよね(笑)。だからおれも少しああいうふうにやってもいいんじゃないかと。間違いを犯してみないと間違った時の気持ちはわからないしね》(「全否定の原理と倫理」)
昔、読んだときは「またすごいこというなあ」と感心したのだが、今のわたしの印象はすこしちがう。これは鮎川信夫の「老化」ではないかとおもう。鮎川信夫ほど、目が見えすぎる人、頭がよすぎる人でも、自分のことになるとわからないものなのかと考えさせられた。
この対談で吉本隆明は、そのことを指摘する。本人を前にして、かなりいいにくいことだとおもうが、あえて諌めようとしたのではないか。
《吉本 だけど鮎川さん、ぼくは鮎川さんのこの二冊の本(『時代を読む』と『疑似現実の神話はがし』)を読んで、生命曲線の踏み方が違うんじゃないかと思えて仕方ないんですがねえ。
鮎川 だけど、きみは最近、「老い」とか「死」についていろいろ言っているけど、どうもぼくは自分の死まで考える余裕がないんだな。まあいずれは自分も直面する問題だけど、今はあんまり考えたくないんだなあ。
吉本 だけど鮎川さん、そういうふうにおっしゃるけど、ぼくは「老い」や「死」の問題は無意識的にあって、はっきり言えば鮎川さんは老い込んでるなという感じがするんですよ。印象としてですがね
鮎川 あっ、そりゃあね。さっきも言ったけど、ぼくはもう踏みはずすのは構わないよって気になったってことはあって、もう面倒臭くなったということはあるだろうね。
それはやっぱり年を取ったからかもしれないね。だけど自分の若い時というのをぼくはそんなにいいとも思っていない》
このやりとりを見るかぎり、鮎川信夫は吉本隆明の言葉を深く受け止めているようにはおもえない。
これはたいへんまずいことだとおもう。
長年対談してきた“盟友”の吉本隆明が鮎川信夫に「老い込んでいる」というのは、よっぽどのことだとおもうのだ。
この対談は一九八五年六月二十八日に行われた。その翌年の十月に鮎川信夫は亡くなっている。
鮎川信夫くらい「偉く」なってしまうと、まわりの人もなかなか注意できなくなる。生半可な批判なら鮎川信夫はすべて反論できる。
また鮎川信夫がそうなってしまった理由は、老いだけではない。その後、吉本隆明とも絶交してしまうのだが、それ以前から鮎川信夫は多くの友人と距離をとるようになっていた。孤立、あるいは孤絶の道に踏み込もうとしていた。
そのことによって研ぎ澄まされた部分もあるかもしれないが、わるい作用のほうが大きかったような気がしてならない。
同世代の友人で自分がおかしくなったとき、ちゃんと注意してくれる人はいるだろうか。さらに自分が齢をとったとき、ひとまわり下、ふたまわり下の若い人の批判を受け止めることができるだろうか。
なんとなく注意しやすい人と注意しにくい人がいる。ちょっとでも批判すると、ものすごく激高したり、逆にすぐへこんでしまう人だと何もいえなくなる。
鮎川信夫のことを仰ぎ見る山のような存在だったと書いた。わたしはすこしずつその山を登ってきた。今、自分が何合目あたりにいるのかはわからないが、黒田三郎の追悼対談を読んだときの違和感がきっかけとなり、すこし冷静に鮎川信夫のことを考えられるようになった気がする。
それ以上に、黒田三郎の詩の素晴らしさに気づくことができたのはほんとうに大きな収穫だった。
これからすこしずつ黒田三郎という山を登ってゆきたいとおもっている。そして『荒地』という山脈も……。
というわけで、「黒田三郎・鮎川信夫」シリーズはひとまず終了します。
また時間ができたら、この続きを書きたいとおもっています。
(追記)
黒田三郎の『赤裸々にかたる』には、古山高麗雄の小説『螢の宿』(「玩具の蛇」)のことが出てくる。
この小説には古山さんの亡母の友人からの手紙が出てくる。
《鹿児島では、私共他国者は「よそもん」或は「ヤドカリサー」とよばれ鹿児島県の方々は区別して卑しんで居りましたが、学校ではそんな事はありませんでした。知事令嬢、七高造士館長令嬢、地方裁判所長令嬢、税務監督局長令嬢みなヤドカリサーです》
それを読んだ黒田三郎は次のように記している。
《もし、僕の母が「玩具の蛇」の作中人物たち、主人公孝雄の亡母みのり、その旧友萩原とき代たちと同年だとしたら、ここに書かれている地方裁判所長令嬢は僕の母のことである》(父母の記)
つまり古山高麗雄の母と黒田三郎の母は同級生だったのである。
わたしは黒田三郎の詩を読みながら、どことなく、古山高麗雄さんと似たようなものを感じていた。
それにしてもほんとうに不思議な縁だなあ。