松尾邦之助の『青春の反逆』(春陽堂書店、一九五八年)がどうしても読みたくなったので、インターネットで検索したら、「古書ことば」にあった。数年前、古書現世の向井さんに「古書ことば」のYさんを紹介してもらって、たちまち魅了された。なにかを一所懸命伝えようとするのだけど、その説明が細かすぎて、わけがわからない。でもそこがおもしろい。いったい彼にはこの世界がどんなふうに見えているのかとても気になる。
「古書ことば 売れない本の紹介」の中にもそのおもしろさがちらほら出てくる。 話のまくらが絶妙に不条理でついひきこまれてしまう。とぼけているようで深い。
注文した翌日『青春の反逆』が届いた。この本の中で松尾邦之助の半世紀で「哲人アン・リネル——思想の新地平」という一文がおさめられている。
《わたしは、アン・リネルを読み、アナーキストは、何はさて、モラリストであり、その後読んだスティルナアの『唯一者とその所有』にしても、辻潤のいうように、すべてこれらが最高の倫理学書であることを知るようになった。一般の日本人には、こうしたモーラルの感覚があまりに低く、まず、ここから出発しなくては、すべてがダメの骨頂だと思った》
学生時代、辻潤訳の『唯一者とその所有』(自我経)を読んだのだけど、当時はほとんど理解できなかった。思想や哲学といったものは、どうも自分には向いていないのではないかとおもっていたのだが、最近また気になりだしている。ひょっとしたら、今ならすこしはわかるのではないか。あとなぜ辻潤がスティルナーにあれほどいれこんだのか、そういう気持で読んだら、この本はきっとおもしろく読めるのではないか。
そうおもいつつ『自我経』(改造社)をひらいてみたが、数頁で挫折する。
アン・リネルへの関心も、思想というより、「不必要な必要物」という、なんかちょっとへんな言葉にひっかかりをおぼえたにすぎない。ずっと心にひっかかったまま、ひっかかりっぱなしだ。
個人主義という思想は、好きな人はものすごく過大評価するし、それをあまり好まない人は、ものすごく過小評価する。
松尾邦之助も、ある講演でひたすら個人主義の倫理について語りつづけたあと、「でも所詮、個人主義はエゴイズムでしょ」みたいなことをいわれて、ガッカリしたというようなことを書いていた。
個人主義について論じることは無駄ではないとおもうが、不毛な議論におわることが多い。
自分の生きたいように生きればいい。自分が生きたいように生きていこうとすれば、当然のように周囲と摩擦が生じる。それを回避しようとしたり、調節しようとすれば、それなりに倫理観や平衡感覚も磨かれてゆくとおもう。
最初から周囲や習俗に合わせようとするのではなく、まずは自分のやり方で行けるところまで行ってみる。その結果、協調性のようなものを身につけざるをえなくなったとしても、それはそれでやむをえない。
かつて自分からすれば、今のわたしは妥協ばかりして、自分の生きたいように生きていないように見えるだろう。
その昔、「おまえはアナキストじゃなくて、ただのリアリストだよ」といわれたことがある。それは当っているとおもう。でもわたしのことをリアリストといった知人は、親元にいて生活に困っていなかった。
自由なんてものは、その人の才能、能力にみあった分しか得られないのではないかというおもいがわたしにはある。制度上の不平等や不自由という問題もあるけど、今はそれ以前の話をしているつもりだ。
アン・リネルは六十歳くらいまで学校の先生をしていた。いちおう生活の保証があったわけである。その上で、個人主義を貫いていた。アン・リネルが教職に就かず、文筆だけで生活していたら、七十歳すぎまで、その哲学を深める活動をつづけることができただろうか。
もっとも、今のおまえは妥協して守るだけの価値のある生活を送っているのかと問われたら、「いや、それはその」と口ごもるほかない。
(……未完)