2007/06/23

打ち荷

 来週からすこし忙しくなりそうなので、その前に山田稔さんの『影とささやき』(編集工房ノア)を読むことにした。

 天野忠のことを書いた「融通無碍」とエッセイがある。
 大野新の「『私』を軽くした分だけ『融通無碍』になって、短い作品のまわりの余白がひろくなった」という天野忠作品の解説をふまえながら、山田さんが模索している理想の小説を語る。

《私的、日常的なことがらを素材にしながら、「私」を自然に越えている》

 また松田道雄のコラムにあった「打ち荷」という言葉をつかって天野忠の詩を論じてもいる。「打ち荷」というのは、難破した船が危機をのがれるために積み荷の一部を海に棄てることだそうで、「病気と貧乏に明け暮れした生涯を通じて、詩人はそのときどきに『打ち荷』を忘れず、身軽さを保ち続けてきたのではないだろうか」という。

 打ち荷かあ、いい言葉を知った。「私」を軽くする。
 わたしもこれまでなんどか身軽になりたいという願望を書いてきた。ライトヴァースへの関心も、つきつめてゆくとそこにいきつくような気がする。できれば文章もなるべくかるくしたいのだ。

 ものを減らし、予定を減らし、生活を軽くしたい。生活を軽くして、自分も身軽になりたい。
 本が増えると、広い部屋に引っ越したいという欲がわいてくる。その欲を利用して仕事にはげもうとおもうこともあるが、仕事にはげみすぎるとこんどはのんびりできなくなる。
 もうかれこれ十年以上もこの問題で堂々めぐりしている。

 そういえば、山田稔さんの『ああ、そうかね』(京都新聞社)にも「融通無碍」という言葉が出てくる。
 「文の芸」と題するエッセイで、小沼丹の『珈琲挽き』(みすず書房)について次のようにいう。

《小沼丹の文章のもうひとつの特徴は人称代名詞を用いない点にある。これは徹底していて、この随筆集のなかでわずかに「僕」、「われわれ」が一、二度出て来る程度である。「私」も「彼(女)」も使わず、それで文意があいまいになることはない。自他の境が取っ払われた融通無碍の世界で読者は寛がせてもらえる》

 今の作家だと石田千さんがそうかもしれない。ほんとうに徹底している。わたしもときどき主語なし文章を書こうと試みているのだが、どうもしっくりこない。