2007/06/21

気分のいい生活

 なんだか生活のリズムがおかしくなっている。睡眠時間が毎日数時間ずつズレてしまう。その結果、洗濯物がたまったり、未整理の資料が増えたり、自炊の回数が減ったりして、今、気持がすさんでいる。
 とどこおりなく家事がしたい。いや、そうじゃない。掃除をしたり、メシを作ったり、アイロンをかけたり、手抜きしようとおもえばいくらでもできることをなるべくていねいにしたいのだ。なんだろう、この欲求は。

 そんな気分のときに、森茉莉の『私の美の世界』(新潮文庫)を読んでいたら、いろいろ考えさせられた。どうして森茉莉のエッセイを読んだのかというと、その本が目の前にあったからにすぎない。
 この本の「ラアメンとお茶漬け」というエッセイで、森茉莉は「インスタントラアメン」や「家庭電化」などの生活の合理化なんてものは、世の中を味気なくするだけで、合理化によって余暇ができたとしても、なんにもなっていないのではないかと問いかけ、次のようにいう。

《ラアメンで倹約した時間で睡眠を摂って、会社へ駆けつけたら、どんな素晴らしい仕事がその分だけよけいに出来るかというと、大したこともないらしいし、(生活のかかっている、すごいヴェテランは別)奥さんがインスタント昼食で浮かせた時間で、読書会をやって、エロでなさそうな小説を読んで、感想を交換しても、手芸をしてデパアトに出品したとしても大したことはない。(中略)
 欧羅巴(ヨーロッパ)の主婦は、アメリカの主婦が紙ナフキンを使い捨てにするのとちがって、上等の、一代ずっと使えそうな、木綿のナフキンに刺繍をして使っていることだし、又欧羅巴の主婦は勤めのために忙しくて、自分で料理が出来ないと不機嫌になるそうである。少し位手がかかっても、生活の底に格調のある、気分のいい生活をした方が、結局はほんとうの合理的生活なのだと、わたしは思っている》

 森茉莉のいうような格調のある暮らしは、はじめから望んではいないけど、多少家計をきりつめることになっても、ゆっくり料理をしたり、掃除をしたりする余裕がほしいとおもう。

 そんなに仕事もしていないし、(森茉莉の嫌いな)電化製品の世話になっているにもかかわらず、いつも時間が足りないかんじがするのはなぜだろう。忙しいなあとおもいながら、だらだらテレビやインターネットを見たりしているのがいけないということはわかっている。
 ぐうたらしているせいで、家事がめんどうくさくなって、「なんでおればっかり」とおもいながら、食器を洗ったりしているのもよくない。
 気分がよくないから、仕事にとりかかるのに時間がかかり、だらだらしてしまうから、時間がなくなる。ほんとうはなくなっているのは時間ではなく、充足感なのかもしれない。別に誰からほめてもらえなくても、ゆっくりていねいに仕事や家事をしたあとは、不思議と気分がいいものだ。