2007/07/02

詩を必要とする人

 辻征夫が詩人になろうと決意したとき、「そういうことは趣味として余暇にやれ」といわれた。
 詩人は職業ではない。ならば、詩は?

 前回とりあげた追悼詩にしても「鮎川さん」という名前を見て「鮎川信夫」だとわかる人向けの詩である。「鮎川さん」が「上村さん(仮名)」だったら、あの詩はどうなるのだろう。

《隅田川の
 いまはない古びた鉄柵に手を置き
 日暮れの残照に黒々とうなだれている
 1965年8月の上村さん(仮名)
 あなたがぼくに
 はじめて本をくれたのは
 たぶんこの写真が撮影されてから
 ちょうど一年後の夏でした
 本の名は『プレイボーイ入門』
 いつも ぼんやりしていて
 女の子と遊び歩くこともなく
 失業ばかりを繰り返して二十代の半ばを
 ふらりと越えてしまったぼくの肩を
 ぽんと叩くような感じであなたは
 《あげるよ》と
 ひとこと言ったのでしたが
 あんなに まったく
 役に立たなかった本もありませんでした》

 上村さん(仮名)は、二十五歳の辻君の上司で、たまにはこういう本でも読んで、女の子と遊ばなきゃというようなノリで『プレイボーイ入門』を手わたす。
 辻君は役に立たなかったといいつつも、そのときのことをとても鮮明におぼえている。
 上村さんは仕事にきびしい上司で、新入社員の辻君にとっては、あこがれの存在でもあった。

 鮎川さんを上村さん(仮名)にしただけで、「だからなんだ」という詩になってしまう。でもこのとぼけた詩の行間には、ものすごい情報量が隠されている。

「1965年」と算用数字を縦書の詩で横に表記するやり方は、鮎川信夫の詩の模倣だと辻征夫はいう。
 詩の中におけるふたりの関係も知っている人にしかわからない。そしていちばんわからないのは、なぜこれを詩にしなければならなかったということだ。
 散文ではなぜいけなかった。詩人だから詩を書いた。だが辻征夫は、エッセイも小説も書く詩人である。俳句もやった。
 でもこの詩の情報量をエッセイで書くとすれば、何倍もの長さになるだろう。辻征夫はそうしたくなかった。詩人、あるいは鮎川信夫に関心のある人にしかわからない詩にしたかった。
 詩人鮎川信夫を知らない一般の読者にもわかるような追悼文は書きたくなかった。

 内輪にしか通じない詩。その批判はあって当然だ。当時の難解な詩が多いといわれた現代詩の世界で、辻征夫はわかりやすく、やさしい言葉の詩を作っていた人でもある。そんな辻征夫が、わかりやすい言葉でものすごくわかりにくい詩を書いた。
 鮎川信夫の追悼詩は、こうでなくっちゃいけない。と、いろいろ理屈をこねることができるが、たんなる気まぐれかもしれない。

《どんな世の中になっても(詩人や作家が爪はじきされず、それどころかアコガレの眼で見られたりする世の中、という意味であるが)、詩人とか作家は、やはり追い詰められ追い込まれて、そういうものになってしまうのが本筋ではあるまいか、と私はおもう。人生が仕立下ろしのセビロのように、しっかりと身に合う人間にとっては、文学は必要ではないし、必要でないことは、むしろ自慢してよいことだ》 (「文学を志す」/『吉行淳之介エッセイ・コレクション3』ちくま文庫)

 高校生で詩の道を志し、二十代半ばすぎまで転職をくりかえした辻征夫も、やはり詩や文学を必要とする人だった。
 詩では食えない。そんなものは趣味や余暇でやればいい。でもそういう考えをすんなり受け容れられる余裕があれば、そもそも詩人にはならないだろう。

 詩人は、どんな世の中になっても、たとえそれで食えなくても、詩を書くことさえできれば生きていけるというようなギリギリのところで、選択するしかない職業である。

《本当のことをいえば、わたくしたちのこの日常生活は、はなはだ散文的でほとんど詩を必要としない面もあります。人々の心が詩の世界に歩みより、詩に近づくことができるのは、ごく特別な場合だけで、われわれの方から求めて接近しないかぎり、詩は無縁の状態に置き去りにされます》
   ( 「生活の詩」/鮎川信夫『現代詩入門』飯塚書店)

 詩を必要とするのは「ごく特別な場合」というのは、吉行淳之介がいうところの「仕立おろしのセビロ」が身に合わないというたとえにも通じるだろう。
 鮎川信夫は「(生活には)その内容のいかんによらず、それが習慣化してしまうと、一様に頭も尻尾も見わけがつかない循環作用に化してしまう、そんな眩惑をおこさずにはいられないような性質」がひそんでいて、そういう生活を送っているうちに神経が麻痺し、感情もかわき、思想は画一化して退化の一途をたどるという。

《こういったことは大変スムースに、意識の内部で進行していくので「なんだか前にくらべると、少し生活のキメが荒くなったみたいだが、多分おとなの仲間入りするようになったからだろう」ぐらいの自覚で終ってしまうのが普通です》(生活の詩)

 普通の大人は詩人を志す若者に「そういうことは趣味として余暇にやれ」と助言する。あるいはもっときびしく「そんなふざけたことを考えているひまがあったら勉強(仕事)しろ」というかもしれない。

 わたしが詩を読むのはあくまでも「趣味」にすぎない。でも単調な生活を送っていると、感覚が麻痺してくるようで不安になる。ほうっておくと、貧乏性ゆえ、思考が効率と損得勘定に向かい、どんどん無駄なことができなくなる。
 無駄なことができなくなると、さらに感覚が麻痺してくる。
 ただし、そうした刺激は別に詩でなくてもいいではないかといわれたら、そのとおりなのである。生活のキメが荒くなったときの清涼剤のような役割ということであれば、映画、小説、漫画、音楽、ゲーム、スポーツ、ギャンブル、旅行、買物、恋愛でもいいわけだ。

 そんなさまざまな娯楽の中で、どうして詩(なんか)を読んでしまうのか。
 ひまだからか。でも忙しくて仕事に追われているときほど詩が読みたくなるのだが。

 やっぱり現実逃避ですかね。でもそれもまた別に詩でなくてもいいわけだし、うーむ。