中村光夫を読んでいるときも読んでいないときも、このところ「文明」について考えている。
わたしは文明というと、エジプト文明やアステカ文明といった古代文明のことをおもいうかべてしまう。
失われた文明。ロマンだ。古代文明の探究とかに一生をつぎこんでいる人が、むしょうに羨ましくおもうことがある。
遺跡の探索、古代文字の解読、なんでもいい。
かつて繁栄した文明が滅びる。かならずしも人間は進歩し続けているとはかぎらない。
壮大な巨石建造物を築き、高度な知識を身につけていた民族が、いつの間にか文字を忘れて、ジャングルで生活するというようなことも起こりうる。
天変地異、疫病、戦争など、文明が滅びた理由はいろいろある。
今の日本だって、この先どうなるかわからない。そんな大きな変化が自分が生きているうちに訪れるのだろうか。
現在はあっという間に情報が伝搬する。ルネサンス以前の西欧は、自然科学その他でイスラム文化圏やアジアよりもはるかに遅れていた。たとえば、医学や天文学の知識は数世紀以上の差があったというような話を聞いたことがある。
中村光夫が二十代だった一九三〇年代は、アメリカやヨーロッパと比べて、まだまだ日本と欧米諸国のあいだには歴然とした文化の差があった。
今の日本は新刊書店、古本屋の数でいえば、世界屈指の文明国といってもいいだろう。
そんな文明国に生まれて、活字漬けの生活をしているわけだが、出版事情がそれほどよくなかった昔の人と比べて、まったく賢くなっていない気がするのはなぜか。
ここ数年、わたしはただただ活字を目で追うだけで、血肉化の作業を怠っている。読む本が多すぎるせいかもしれない。
中村光夫の『戦争まで』(中公文庫)は、鈴木信太郎訳のボードレール『悪の華』の「旅」の一節が掲げてある。
《地図や版画の大好きな少年にとり
宇宙とは、その旺盛な食欲と同じもの
ああ、実に、洋燈の光の下で見る世界の大きなこと
それなのに、思い出の眼に映っている世界の何と小さなこと》
知らないことは山ほどある。その多くは理解しようにもできないことでもある。
科学についていけず、政治経済についていけず、趣味の将棋ですら最新戦法はさっぱりわからない(「藤井システム」以降)。
悲しいことだが、年々、自分の手に負えそうにないことに関してはすぐ見切りをつけるようになっている。
好奇心、探求心……旺盛な食欲は体力とともに衰える。
『戦争まで』で、中村光夫はフランスのルネサンスについて論じている。十五、六紀、ルネサンスのイタリーに比べて、フランスはまだまだ野蛮国だった。
そのイタリーにフランスは無謀ともいえる遠征をしかける。その結果、いいようにあしらわれてしまう。ただし、この遠征によって、数万の「粗野な兵卒」はイタリー市民の生活を見て、その文化に多大な影響を受けたはずだという。
《ルネッサンスその物の根本の性格が、新たな文化に触れた若い野生を持つ国民の激しい覚醒を意味するものとすれば、このときすでに十六世紀のルネッサンス運動の中心は爛熟と頽廃のイタリーを去って、フランスに移るべく約束されていたといえましょう》
『戦争まで』の前半は、一九三九年に留学先のフランスから中村光夫が送った小林秀雄宛の手紙である。中村光夫もまた文化に渇望していた青年だった。
ルネサンスの分析で、中村光夫は、「趣味豊かな文芸愛護者」だったイタリーの僭主と比べ、フランソワー一世は「文化に対する渇望の血」を秘めた「聡明な野人」だったとも述べている。
わたしも田舎から上京したころは、聡明かどうかはさておき、文化に渇望する野人だった。
それから二十年ちかくの月日がすぎ、文化にたいする飢えはしだいに薄れてしまった。
趣味人としても野人としても中途半端なかんじだ。
ひょっとしたら中村光夫もそうだったのではないかという気もする。
ルネサンスから三百年後、「当代のフランス人の中でも比類を冷徹犀利な絶した人生計算家」だったスタンダールの「イタリー愛好」は、「細緻にすぎる精神の動きに疲れた文明人の野生への復帰」(願望)であり、フランス・ルネサンス期のフランソワ一世が「憧れを終生瑞々しく保った秘密」については、「中世伝来の騎士気質」が関係しているのではないかと中村光夫は考えていた。
(……続く)