旅をしたり、あちこちから人がきたりして、これを楽しいといわずして何を楽しいのだという日々をすごし、日常に戻る。
日常はやらなければならないことばっかりだ。なるべくやらなければならないことを楽しくやりたい。そうするにはどうすればいいのかを考えるのは、昔からわたしはきらいではない。
話はいきなり脱線するけど、子どものころから、朝起きることができなかったり、集団のルールが守れなかったりして、そんなことでは社会で通用しないといわれ続けてきて、やり方はちょっとちがうけど、生きているじゃないか、食っていけてるじゃないか、どうにかなっているじゃないかということを証明したいというおもいがあって、それが自分の文学、いや、文学以前の、文学の動機のようなものなのかもしれないとおもった。
一時期、就職はしていないけど、考えるひまもないくらい忙しいところで仕事をしたことがある。忙しいことがいやになったのではなく、「いわれたとおりにやれ。それ以外のやり方は認めない」といわれたことがいやになってやめた。
たとえば、わたしはレシピを見て料理を作ったことがない。順序とかまったく無視して、とりあえず煮たり焼いたりして、最後に味をととのえる。料理にかぎらず、はじめは大雑把にやって、最後に調節するというやり方が好きなのだ。
後で、こうしたほうがいいんじゃないかといわれたら、わりと素直に聞くのだけど、途中でごちょごちゃいわれるといやになる。
一見おとなしくてまじめそうなのだけど、どこかヘンだといわれるのは、そういうところなのかなという自覚は多少はあるいっぽう、けっこうそういう人っているとおもうのである。それでちょっとわかりにくい形で社会不適応をおこしている。
昨日か一昨日か、昼間テレビをつけたら、海外の映画をやっていて、男が煮え切らない態度でうやむやな返答をしていたら、女が「イエスかノーか、はっきりして」とかなんとかいうシーンがあって、わたしはその言葉に拒絶反応をおこし、そのままチャンネルを変えてしまった。だからその映画が何という映画かわからないし、知りたくもないのだが、わたしは昔から「イエスかノーか」みたいなことをつきつけられるのがいやだった。
それから少し前に、ミスなんとかの女性がインタビューなどの受け答えで反感をかったことについて、何でも聞かれたことにはっきり即答しないとバカだとおもわれるから、そういう訓練を受けたというようなことをいっていた(……うろおぼえ)。
よくわからないが、そういうルールの世界があって、そういうルールの世界で勝つために、バカとおもわれないための訓練を受けたという。その結果、ミスなんとかになれたという話だった。世界基準がそういうものであるなら、世界はおかしいんじゃないかとおもった。
まあ、そんな世界を改革したいというほど、大それた野望はないが、できれば「イエスかノーか」をつきつけらるような局面をのらりくらりとかわしながら、バカだとおもわれてもいいから、納得いくまでいろいろ考えたり試したりするような人生を送りたい。
これもまた文学以前の、自分の根っこにあたるようなものなのではないかとおもったのだが、なんでそういうふうになってしまったのかについては、まだ曖昧模糊としていてよくわからない。