日曜日、夕方まで寝る。起きて中野に行く。あおい書店で新刊本と雑誌のチェックし、そのあと中野のブロードウェイセンター。二階の古書うつつ、四階のまんだらけ「記憶」をまわる。古書うつつでは、ずっと探していたある詩人のエッセイ集を見つける。この本のことは『本の雑誌』のコラムに書く予定(……変更。次の次くらいに書きます)。
二階の中古おもちゃ店で松本零士の漫画に出てくる重力サーベルが売っていた。千五百円だった。ちょっとほしいとおもった。
帰り道、中野駅前の総菜屋でイカめしを買う。イカめしは、大好物でありながら、自分で作る気になれないもののひとつだ(作り方は知っている)。
今月はたるんでいる。そろそろネジを巻いていこうとおもっている。数年前から年にひと月かふた月、わざと調子を崩すようにしている。そこから徐々に上げてゆく。一年通して、調子を維持しようとすると、崩れたときに長引く(……というのは怠ける口実である)。
わたしはもともと低迷しているときに読めるような文章が好きなのだとおもう。弱っているときに読んで、ちょっとだけ元気になるようなもの、そういうものを読んだときがいちばんうれしくなる。
《今週は自分を改善しようと思う。
もっと本を読むべきだ。たぶん明日は重要な本を買い、読破し、なにか知らなかったことを学ぶだろう。実際、なぜ毎週そう決意しないのだろう。一週間に一冊、いい本を読もう。そうすればわたしは改善されるだろう》
これはアンディ・ルーニーの〔男の枕草子〕『自己改善週間』(北澤和彦訳、晶文社)の一節。
これといって斬新なことが書かれているわけではない。でもその語り口が好きなのだ。最初に「べきだ」と強くいったあと、「だろう」「だろう」と続けることで、すっとぼけたかんじになって、意味を押しつけない。
アンディ・ルーニーは知性には二種類あるという。
ひとつは試験の点数で測れる知性、もうひとつは数字では測れない「人生の理解力」ともいうべき知性だ。
平野謙がいう「人間智」(浅見淵を評した言葉)も同じような意味だとおもう。
「人生の理解力」「人間智」というのは、なんてことのないところにあるのではないか。
最近おもったのは、それは「楽」ということと関係あるかもしれないということだ。自分が「楽」になること、他人を「楽」にさせること。自然にそうふるまえること。自分が「楽」だとおもう状態が、他人にとってはそうでもないこともあるし、その逆もある。
ほどよく「楽」になるにはどうすればいいのか。「楽」にはわからない。