キース・ソーヤー著『凡才の集団は孤高の天才に勝る』(金子宣子訳、ダイヤモンド社)を読んだ。
三年くらい前にジェームズ・スロウィッキー著『「みんなの意見」は案外正しい』(小高尚子訳、角川書店)という本が出ていて、「似たような本かな」とおもいながら手にとった。似ているところもあるが、ちがうところもあった。
『「みんなの意見」……』のほうは、「集合知」(集団の知恵)というテーマをあつかっていたとおもう。たとえば、グーグルなどであやふやな人名を検索すると、検索結果の数が多いほうが正解であることが多いというような話だ(ごめん、うろおぼえ)。
『凡才の集団は……』のキーワードは、「グループ・ジーニアス」あるいは「コラボレーション」である。
タイトルや装丁は、ビジネス書っぽいが、パラパラ読んでいるうちに、「グループ・ジーニアス」という言葉は、わたしの関心事である中央線文士、第三の新人、「荒地」の詩人、「トキワ荘」の漫画家とも無縁ではないことがわかってきた。
現在のイノベーションの多くは、一人の天才が生み出したものというより、相互に影響しあうグループから生れているという。
マウンテンバイク、グーグル・アース、eメール、リナックスといった発明も「グループ・ジーニアス」によって生まれた。
それだけではない。
トールキンの『指輪物語』、C・S・ルイスの『ナルニア国物語』も、孤独な作家の思索が生み出した作品ではない。トールキン、ルイスらは地元の学者たちと「インクリングス」というグループを作っていた。そして毎週火曜日にパブに集まって、神話や叙事詩について議論したり、自身の作品の朗読をしたりしていた。
トールキンの未完の叙事詩に、ルイスが感想を書き送る。さらにメンバーが次々とアイデアを出し、それぞれの章を自宅で書き、会合で朗読する。
《私たちが作家に抱くイメージは、内なる霊感に突き動かされる孤独な姿といったものだが、『指輪物語』と『ナルニア国物語』は、独りで仕上げたものではない。孤高の天才の手がけた作品ではなく、前述のとおり、コラボレーションに満ちたサークルで展開された物語なのである》
ファンタジー文学好きには有名な話なのだろうか。もちろん「インクリングス」は「凡才の集団」ではなかったけど……。
日本でいえば、さいとう・たかをの『ゴルゴ13』が、ある種の分業、コラボレーションによって作られているのは有名な話だ。
分業や共作ではなく、もうすこし見えにくい形の「グループ・ジーニアス」というものもあるだろう。
たとえば「阿佐ケ谷会」は、井伏鱒二や木山捷平の作品にどういう影響をあたえたのか、あたえなかったのか。あるいは、小沼丹はどうか。小沼丹は、井伏鱒二と知りあわなかったら、どうなっていたのか。
ある時期の鮎川信夫と吉本隆明の交流は「グループ・ジーニアス」といえるようなものではなかったか。
かならずしも、コラボーレションというものではないかもしれないが、個々の才能が影響しあい、刺激しあうような関係や場所はあるとおもう。
そうした関係を作ったり、新しいものが生まれる場所を見つけたりすることも才能のひとつかもしれない。