平林たい子、福田恆存、鮎川信夫は、どうして「縮緬を織る人は縮緬を着ることができません」という言葉に反応したのか。
安易ではあるが、とるにたらないといえば、とるにたらない発言だ。
鮎川信夫の『一人のオフィス』は、一九六六年に『週刊読売』で連載していた。
「自動販売機的な言論」には「言論の正しさ」という言葉が出てくるが、最終回の題は「『たしかな考え』とは何か ある知識人にみるゆるぎない知性」である。
旬の話題をとりあげ、読者を楽しませたり、考えさせたりする時評というより、この連載では、鮎川信夫が自らの判断力、分析力を磨き、「たしかな考え」を身につけようとしていたのかもしれない。
《ペンを持てば書かんことを思い、なにがしの思いつきを気ぜわしく書きしるしていても、時に、すき間風のような虚無感におそわれることがある。内部がすっかり空洞化してしまっているのではないか、といった不安にさいなまれることがある》(「『たしかな考え』とは何か」)
鮎川信夫は、四十年前に書かれた津田左右吉の「日信」を読む。
《当時と今日とでは、ずいぶん世の中の状況が変わったはずである。それなのに、この中で津田氏が取り上げている問題の一々が新しく、今日でも深く考えさせられるものを含んでいる》
二〇〇九年現在からみれば、『一人のオフィス』も四十年以上前に書かれた本である。
鮎川信夫は、一九二〇年生まれだから、わたしよりだいたい五十歳くらい齢上なのだが、気がつくと、鮎川信夫が『一人のオフィス』を書いていたころの年齢に自分が近づきつつある。
前、読んだときよりも「内部がすっかり空洞化してしまっているのではないか」という一文に身をつまされた。
(……続く)