『時代を読む』(文藝春秋、一九八五年刊)のあとがきに「規律は何程か自己改造の役に立つ」という一文がある。
鮎川信夫は、毎週一本、嘆息をはき、脂汗をにじませながら短いコラムを書くことが、生活のリズムを作っていたと回想する。
また『時代を読む』の「読書週間を終えて」には、現代は、情報過多の時代だが、そのわりに人間が賢くなったようには見えないとも記されている。
《情報、情報、情報の連続で、考える力を奪われてしまっているのである。いや、「考え」さえも情報で、他人まかせになっている》
マスメディアが提供する「情報」や「考え」は、「インスタントなもの」と化しているから、それにふりまわされると、ますます考える力が失われてしまう、とも。
このコラムの初出は一九八二年十一月。今から二十七年前の話である。
今、情報は、さらに、よりインスタントで、よりコンパクトであることが求められるようになっている。そうした変化についていかないとまずいかなあ、とおもうこともあるのだが、「一得一失」という言葉が頭に浮び、なかなか実行できずにいる。
「自動販売機的な言論」の縮緬工場の女工のナレーションの話は、ちょっと考えればわかることを考えない人々にたいする批判である。
「考える力」がないのか。「考える時間」がないのか。それともその両方か。
時間をかけて、できるだけ正しい判断をする。しかし、時間をかけすぎれば、時機を逸し、判断自体が無効になってしまうこともある。
《規律は何程か自己改造の役に立つ》
鮎川信夫は、どんな「自己改造」を目指していたのか。早さと正確さを備えた思考を身につけることではないか。
(……続く)