日曜日、西荻窪・なずな屋の「文壇高円寺の古本棚」に補充してきました。今月から棚が二段になりました。
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尾崎一雄の『沢がに』(新潮社、一九七〇年刊)の中に「運ということ」という随筆がある。
関東大震災のすこしあと、大学時代の友人の山崎剛平、中林康敏といっしょに日本中を旅行しようという話になった。尾崎一雄はそんなお金があったら酒が飲みたいといって断った。
しばらくして山崎、中林の二人は東北、北海道、樺太を旅行した。
そして二人が乗る予定だった樺太から北海道に帰る汽船が小樽港外が沈むという事件が起こる。ほとんど生存者はいなかった。
ところが、二人は無事だった。
中林が宿に写真機を忘れて取りに戻ったおかげで船に乗り遅れたのである。
《現在彼らは、それぞれ家郷にあって悠々と自適している。それにしてもその旅行に私が加わっていたら、運命はどう展開したか判らない》
船に乗り遅れて助かる人もいれば、逆にたまたま予定してなかった船に乗ってしまった人もいる。
今、無事に生きているということは、自覚の有無にかかわらず、そうした運不運をのりこえてきているといえる。
運に関していえば、かならずしもその人にとって予定通りにいくことがいいとはかぎらない。何が幸いし、何が災いするのか、わからない。
しくじったり、ついていないことが続いたりしたとき、ひょっとしたら、そのおかげで知らず知らずのうちに命拾いしたかもしれないと考えると気休めになる。
「今日何するか、明日何するか」
そういうことが決められない不安定な生活をしていると、偶然に左右されやすい。
最近、予定にしばられすぎている気がする。
予定に合わせた生活だと変化がすくない。
もうすこし運まかせの生活を送りたい。