近所のオリンピックに電子レンジでも使えるお椀を買いにいく。上京したときに買ったお椀をようやく捨てた。軽くて、卵をとくときに便利だったのだが、変色してボロボロになっていた。
あと壊れていた台所用の小さな時計も買う。電波時計で温度と湿度も表示される。千円以下。安すぎるのではないか。
昼すぎ、西部古書会館の古書展に行って、鶴見俊輔、野村雅一『ふれあう回路』(平凡社、一九八七年刊)などを買う。
『ふれあう回路』の冒頭のほうで堺利彦、山川均のことが語られる。野村雅一が明治の社会主義者は観察が細かくて文章がうまかったといい、鶴見俊輔はふたりとも明治の暮らしの気分、商人の気分を受け継いでいるというような話になる。
ところが、時代が進むにつれて、学問の力が強くなり、商人の気分があまり尊重されなくなってくる。
そして話題は脱線、飛躍——。
《鶴見 私は毎日ものを買いに出るんだけど、私の住んでいる岩倉で、同種のものを商っているうちが三軒か四軒ある。そうすると、自分の足が向くのはそのうちの一軒ですね。なぜ、その一軒を選ぶかというと、別に長話をするわけではなくて、二言三言なんだけど、そこへ行くとだんだん元気が出てくるような人がいる。つまり、人生の応援歌みたいな感じがする人がいるでしょう。言葉に花があって、それがおまけなんだよね。机の上で経済学者が商行為といってとらえているのとはちょっと違って、やりとりがあるわけでしょう》
店をやっている側からすれば、原価や利益を考えなくてはならない。でも鶴見俊輔のいう「商人の気分」というのは、数値化できない「ゆるさ」「大らかさ」のようなものが含まれている。こうした「ゆるさ」や「大らかさ」というのは、自由業にとっても、大事なことのようにおもう。
元気で明るいというだけではなく、その店に行きたくなる雰囲気というものは何なのか。
それは明治の社会主義者の文章の味わいとも関係しているのか。