……十一月になって、すこし仕事が落ち着いた。
先週の金曜日の夜、仙台へ。国分町のなんかんやで飲む。前日までは、高円寺の飲み友達のオグラさんとカメラマンの荒井さんもいたと聞いて驚く。
この日はごはん屋つるまきに宿泊する。
翌日、火星の庭の前野さんと今回の地震と津波で大きな被害を受けた名取市の閖上を訪ねた。
閖上は一年七ヶ月ぶり。朝まで古本を肴に飲み明かした海のすぐそばにあったKさんの家は津波で流されてしまい、周辺は更地になっていた。
今、Kさんは仮設住宅の寺子屋の先生をしている。六月ごろ、朝、ぼーっとNHKのニュースを見ていたら、子どもたちに勉強を教えるKさんが出てきてびっくりした。
Kさん、前野さんといっしょに閖上をまわりながら、震災当日の話を聞いた。
「地震直後は、津波がくるとはおもわず、家にいた」
「ここで津波が見えて、車を乗り捨てて逃げたんだよ」
「津波はバキバキって音がした」
「避難した学校は二階に行けなくて、一階の音楽室にいて、もし水が入ってきたら、娘といっしょに外に飛び出そうとずっと窓のところで構えていた」
「そのとき学生時代の先輩が流されてきて、腕をつかんで教室にひっぱりこんだんだよ」
「流されてきた家や車が学校にぶつかってきた」
車の外を見ると、横転した船がまだ残っている。海の底に車がいっぱい沈んでいるという話も聞いた。
前に来たときと風景が一変している。家がなくなっていて、車もほとんど通らない。
Kさんは寺子屋の活動だけでなく、閖上の日和山の神社の復興にもかかわっている。
Kさんの活動を支えているロシナンテスというNPO法人の話も聞いた。もともとロシナンテスは、スーダンで医療活動を行っていた団体なのだが、震災後、閖上の支援に尽力している。
三ヶ月ちかく避難所生活をしていたKさんは、自分で働いて生活したいとおもい、仮設住宅に入居せず、家を借りた。
まだまだお金やモノが必要な状況ではあっても、働きたい人が働き、自分たちの力で暮らしていけるようになることが、ほんとうの復興になるというようなことをKさんがいっていたのが印象に残った。
「被災地」と一括りにする危うさ、個別に考えていくことのむずかしさ……。
震災前の日常に戻りつつある東京でぐだぐだと暮らしているわたしは、閖上を訪れるまで、「(自分のような人間が)何をいってもどうにもならない」という気持でいた。残念ながら、今もその気持はくすぶっている。
難しく考えすぎて、最善の答えが出るまで何もしない。昔からわたしはそういうふうになりがちで、そうした姿勢(癖)はなかなか変わらない。いつも「動きながら考えたい」とおもっているのだが、立ち止まって呆然としてばかりだ。
自分が何もできなければ、ちゃんと真剣に考え、行動している人を支援する。
微力だけど、無力ではない。
それが今のところの結論。
(……続く)