2012/01/05

年末年始

……大晦日から三日まで静岡ですごす。妻の親族が集まり、いつもにぎやかだ。はじめて会ったときに小学生だったいとこも大学生になっている。

 静岡では、食って寝て、飲んで寝て、ひたすらぐうたらした。
 静岡おでん、とろろ汁、いかめし、大好物ばかり。雑煮や味噌汁にもふりかけやだし粉や青のりをかける。最初はおどろいたが、やってみるとけっこううまい。
 郷里の三重と気候風土が似ているとおもう。

 静岡では「東静岡を『副都心』に」と再開発が進んでいて、東静岡駅を「日本平駅」に改称するという動きもある。
 正月の静岡新聞でそのことを知った。
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 今年は情報とすこし距離をとって、思索の時間を増やしたい。十年くらい前から同じようなことをいっている気がする。

 年末年始、ぐうたらしながらおもったのは、大切なことは何度でもくりかえし伝えたほうがいいことだ。
 昔の本の中にも今、必要なことがたくさん書いてある。そんなに昔ではなく、近過去でも忘れられていることはたくさんある。

 静岡に滞在中、橋本治の『貧乏は正しい!』(小学館文庫)を三巻まで再読した。
 二十年くらい前に『ヤングサンデー』で連載していた時評なのだが、固有名詞を変えれば、そのまま今でも通じるようなことばかりである。

 二巻の『貧乏は正しい! ぼくらの最終戦争』の「阪神大震災篇」の「『忘れない』ということ」は、今こそ多くの人に読んでほしい。

《“努力をする”ということだって大変なことだ。そして、人間がなんで“ムチャな努力”なんかが出来るのかと言えば、そこに“希望”を感じるからだ。その“希望”が感じられなくなった時、人は疲れ果てて絶望する》

《人間は、時間の中で、“慣れる”ということを獲得してしまう。「もうそんな必要はない」と頭では思っていても、体の方は獲得してしまった習慣の中からなかなか抜け出せない。つらい日の中で格闘する夢を見てうなされたりするのは、そんな時だ。人間は、押しつけられてしまった“むごい記憶”を、なかなか振り払うことが出来ない》

《大震災にあった人達に必要なのは、「忘れる」ということだ。それが出来てはじめて“復活”は可能になる。でも、大震災にあわなかった人間達のすることは違う。大震災にあわなかった人間達のすることは、それを「忘れない」ということだ》

《忘れてはならないことはただ一つ、「その不幸は、誰に対しても突然ふりかかってくる不幸」なのだ。“痛みを共有する”ということは、その悲劇を“特殊な悲劇”だと思わないことだ。不幸は誰にだってくる。そう思わなかったら、「自分だけなぜ?」と思って泣く人達が救われないじゃないか》

 無理矢理でも“希望”を持ちたい。
 その“希望”を言葉にしていきたい。

 今年の抱負はそんなところです。