……書くことは自己惑溺のモノローグではなく、他我とのダイアローグである。
その他我の設定は人によってちがう。自説に賛同してくれる他者もいれば、相反する意見を持つ他者もいる。文意がまったく通じない他者もいるし、そもそもはじめから読む気がない他者もいる。
鮎川信夫は「詩を十年やめる」と宣言したことがある。詩をやめてみて、自分はかなり異様な人間だったことに気づく。
そして「他人がわかってくれなくても、どうでもいい、と思いつづけていたということになる。いつも一人になりたがっていたと言い換えてもいい」(「〈私〉性とは何か」/『疑似現実の神話はがし』思潮社)と述べる。
ここまで極端ではないけど、わたし自身、他人にわかってもらいたいけど、わかってもらうために、自分の考えを変えたくないとおもっている。しかしその困難にぶつかるたびに、閉じこもりたくなる。
《言葉というのは本当に難しい。どんなに言葉の技の利をつくし、贅をつくして表現しても、わからない人にはわからないし、かなりチャランポランに喋った言葉でも、そこから重要なヒントを掴んでくれる人もいる》(「〈私性〉とは何か」)
鮎川信夫は「他我とは、無数の読者の影である」という。無数の読者は、さまざまな考えの持ち主であり、すべての人を納得させることは、不可能といってもいい。逆にあまりにも他我を意識しすぎると、くどくなりすぎたり、不鮮明になったりする。
そのさじ加減やバランスをどうするか。
他我にたいして鈍感にならずに、自己を貫徹させる強さを持つこと。
《文学者の世界は表現の世界なのだから、その単独者が自分をこの社会のなかでどう生かしていったか、どういう戦略、思想、美学で人生と相渉り闘ったかがわかれば誰にとっても参考になる、と思う。ジョイスでもプルーストでもすぐれた文学者を見ていけば本当に自分の、自分のためのものが確実に得られるだろう》(「反核運動の真贋を問う」/『疑似現実の神話はがし』思潮社)
「単独者」という言葉は、鮎川信夫を読み解くための重要なキーワードである。
でもわたしはいまだにその意味を理解しているとはいえない。
(……続く)