……自己を貫徹する力は、信仰心と似ている。狂信者ほど自己を貫徹する力は強い。信じるものがないと弱くなる。
十代二十代のころに影響を受けたものを信じ続ける。ここ数年、わたしはそういう気持が弱ってきている。いろいろな本を読み、いろいろな考えを知り、「無数の他我」が根づくにつれ、何が何でも自己を貫徹させたいという欲求が薄まっているのかもしれない。
《しかし、自己言及だから純文学がつまらないのでは、多分あるまい。(中略)文学者の自己言及がつまらないとすれば、そこに語るに値するような自己がないというだけのことである》(「文学停滞の底流」/『私の同時代』文藝春秋)
鮎川信夫は職業としての文学者の地位が下がり、文学の教養が現在の価値観から疎外されつつあり、文学も単なる消費物になり下がっていることが「文学停滞」につながっていると指摘する。
《神(絶対者)のいない世界で、相対主義に安住しているのが、現代人である。言葉など信じず、オーウェルのいう二重思考にも馴れているから、嘘を真実のように言いくるめるのは造作もない》(同上)
神(絶対者)のいない世界だから、文学は停滞している、という単純な話ではない。しかし「現代人は相対主義に安住している」というのは、重要な指摘だろう。
わたしも現代人のひとりであるからして、絶対の正しさを信じることができずにいる。この鮎川信夫の意見についても「絶対に正しい」という立場で書くことができない。
文学であれ、思想であれ、自分の軸になる「絶対者」を持つことができたら、自己を貫徹しやすくなる。ただし、狂信者になれば、「無数の他我」が敵対者になりかねない。
相対主義に陥らず、「無数の他我」を統御することは、鮎川信夫にとっても容易ではなかった。しかしその困難を決して避けようとはしなかった。
おそらく文学の使命を信じていたからだ。
そして語るに値する自己の持ち主でもあった。
(……続く)