長そでのヒートテックを着て背中にカイロを貼る季節になった。どうしても寒いと(もともと少ない)外出時間が減る。運動不足になる。すこしは歩かないと頭もまわらない。
藤本義一著『生きいそぎの記』(講談社文庫)はNEGIさんが持っていて、貸してもらえることになった。助かる。
『週刊ポスト』の連載をまとめた関川夏央著『やむを得ず早起き』(小学館)はすごすぎる。週一ペースでこの文章の質はちょっと考えられない。
この本の中の「目的地に着いても立たない乗客」と題したコラムを読んでいたら、「私の一九七〇年代の友人に、一歳年長のT君というシナリオライターがいた」という文章があった。
あるときT君が缶詰めになっていた神楽坂の旅館に呼び出され、オリジナルのシナリオを読まされる。
そのシナリオは——。
《野心を抱いた六人のチンピラ・ヤクザが自滅する滑稽な悲劇の生原稿だった》
関川夏央はT君に「イメージキャストが川谷拓三など大部屋上がりの役者では、とても客が入らないだろう」と感想を語った。さらにコラムでは、本人の気持を汲んで口に出さなかった批評も続く。
昨年秋に河田拓也さんが刊行した雑誌『For Everyman』に「伝説のチンピラ映画シナリオ発掘掲載『六連発愚連隊』」、そして河田氏による高田純の追悼文、インタビューが収録されている。
追悼文とインタビューの熱量には圧倒されたのだが、初読のさい、高田純の幻のシナリオはピンとこなかった。
むしろわたしは河田氏の追悼文の言葉にこの作品の真価を教えられた。
高田純にシナリオの掲載をお願いしたとき、初稿を「現在の自分の目に耐えられる形に書き直したい」といわれる。
ほどなくして大幅にマイルドに改変されたシナリオを見せられた。
《すぐに小田原まで伺って、「馬鹿な連中の、愚かさや残酷さがそのまま書かれていたからこそ、この映画は人間に対して本当に寛容なんです。そこを無くしてしまったら、この脚本の潔い魅力が消えてしまう。現在の穏当さが孕む不寛容へのカウンターとしての、作品の意味が見えなくなってしまう」と、必死に説得した》(河田拓也「追悼・高田純」/『For Everyman』)
高田純に向けられた言葉だが、わたしにもグサっときた。
穏当さ、あるいはバランス感覚がないゆえ、生きづらさをおぼえる人がいる。
同じように生きづらくても、自分と別種の欠落には不寛容になってしまうことがある。わたしはいわゆるヤクザ、チンピラ映画のよさがよくわからない人間である。
でも「このままでは、映画化の可能性がない。現在の観客、特に女の子が観ないような形で送り出したくない」といった高田純の言葉はけっして軽いものではなかったとおもう。
(追記)
『やむを得ず早起き』のT君の話のひとつ前のコラムは山田太一のドラマ『男たちの旅路』の話だった。