九月五日の朝、電話があった。わたしの朝寝昼起を知っている友人が午前中に電話をかけてくることはほとんどない。
ナンバーディスプレイに扉野良人さんの電話番号が表示されて「もしや」とおもった。
やっぱりそうだった。そのあとすぐ石田千さんからも同じ内容の電話がかかってきた。
入院中だったことは知っていたし、前の週に見舞いに行った扉野さん、石神井書林の内堀弘さんから容体も聞いていた。
ちょっと寝ぼけていたが、平静のつもりだった。ところが、その日の記憶はあちこち飛んでいる。
昔から、悲しいときには、心が痛むのではなく、頭がおかしくなる。
中川六平さんと会って二十年くらいになる。『思想の科学』の編集者のNさんに紹介してもらった。初対面のとき、六平さんは「おまえ、貧乏そうだなあ。文芸座のもぎりのバイトやらないか」といった。
バイトの話は断ったが、以来、ときどき高円寺で飲むようになった。「安い飲み屋連れてけ」と呼び出される。夕方タイムサービスで生ビール百円の店に案内したら「ここまで安くなくてもいいんだよ」と文句をいわれた。
『古本暮らし』(晶文社)の打ち合わせと編集作業は古本酒場コクテイルでした。当初は、編集の仕事を手伝えといわれていたのだが、わたしは自分の本を作ってほしいとお願いしたのだ。
「わかった、原稿もってこいよ」
当時の六平さんは晶文社で微妙な立場だったから、わたしの本はちゃんと企画を通していないとおもう。
表紙ができ、見本ができても不安だった。もしかしたら出ないんじゃないか。書店に並ぶまでは安心できない。
二〇〇七年五月、はじめて自分の単行本が書店に並んでいるところを見たときはうれしかった。
本が出たあと、六平さんにいわれた言葉は「おまえは失うものがないんだから、守りに入るんじゃねえぞ」だった。
最初の単行本の担当編集者は、書き手にとって大きな存在だ。
でもわたしは六平さんにお礼をいったことがなかった。けなされ、おごらされてばかりで、感謝の言葉をいう隙を与えてもらえなかった。
六平さんが最後に編集した本は石神井書林の内堀弘さんの『古本の時間』(晶文社)である。
『古本の時間』の発売日、六平さんはその本が書店に並んでいる写真を見ている。
夜、眠りついて、そのまま起きてこなかったらしい。