九月、藤井豊さんはまだ仕事部屋にいる。先週はじめから、閖上の仮設住宅の寺子屋の先生をしている工藤博康さんも上京していて、ずっと相部屋状態だった。
工藤さんは酒が強い。前に東京に来たときも十二時間くらい飲み続けた。最後のほう、わたしは意識が遠のきかけた。
文学の話をしているときも工藤さんは技術の話ではなく、「なぜ書くのか」という問題に踏みこんでくる。表現にたいして誠実なのである。どちらかといえば、わたしもそういう話をするのは好きなのだが、工藤さんの熱量にはかなわない。
月末の仕事はどうにか乗りきった。日課の散歩によって、すこし体力がつき、よく眠れるようになったのがいいのかもしれない。
無理なペースは長続きしない。
ただ、あまりにも無理をしない生活をしていると、いろいろな能力が退化しそうで怖い。
ここ数年、そんなことばかり考えている。
昔、将棋の本を読んでいて、「からだで覚えた将棋」という言葉を知った。
いわゆる大局観のようなものもそれに含まれる。どんなに頭のいいプロ棋士でも、あらゆる局面を記憶することはできない。さらに未知の局面にしょっちゅう出くわす。時間制限がある中で次の一手が読みきれないとき、プロ棋士のレベルになると、ここでこう指したら「気持がいい/気持がわるい」という感覚があるそうなのだ。
もちろん「からだで覚えた将棋」の感覚そのものはわからない。将棋の感覚はわからないけど、文章の読み書きなら「気持がいい/気持がわるい」という感覚はそれなりにあるとおもっている。
何かひとつのことに打ち込んで、身にしみついた感覚はなかなか理屈では説明できない。
一見どうでもいいようなものの微妙なちがいをかんじとれるかどうか。
最近、そうした感覚に頼りすぎると今度は別の何かが衰えるのではないかという気もする。
ややこしくてむずかしい。
まとめられそうにないので宿題にする。