昨日、室生犀星の『随筆集 刈藻』(清和書院、一九五八年刊)を読んだ。この本、ずっと「川藻」という題だとおもっていた。背表紙の「刈」の字のところのパラフィンが傷んでいて「川」の字に見える。それで勘違いしていた。
犀星、自分の本が売れないという愚痴ばっかり書いている。
それはさておき、「拍手を外に」という随筆は気になることが書いてあった。
二十代、三十代は過ぎるのが早い。
ところが——。
《十代から二十代までは永かつた。それと似て五十から六十の間も永い、若い時代につひやした一日の生活といふものが、五十代になると二日くらゐの永さで生活できるやうだ。気持にゆとりがあり、物を見ることに叮寧綿密さがゆき亙つてゐて、すぐ結論にはなかなか達しなくて何度も考へ直して見るからである。肉体的にはその動作が鈍くなるせゐもある》
ほんとうだろうか。五十代になってそうおもえたらうれしい。
あと五年ちょっと。今の感覚だと五年なんてあっという間の気がする。
ただし、五年後の自分が予想つかない。
*
『本の雑誌』の今月号は小沼丹著『珈琲挽き』(講談社文芸文庫)について書いた。
小沼丹は文芸文庫ではじめて知った作家で、『小さな手袋』が刊行されたときにすぐ新刊で読んだ。主語のない不思議な文章で真似しようかとおもったことがある。でもしっくりこなかったのでやめた。
小沼丹は「第三の新人」の作家と感性がちかいといわれることがあるが、今読むとちょっとちがう気がする。随筆に関しては、詩人の天野忠と読後感が似ているとおもう。
『小説すばる』の今月号は「まんが道と古本」——。
藤子不二雄著『トキワ荘青春日記』の一九五七年十月二十七日に、次のような記述がある。
《さっき買ってきた森卓夫という明治の青年の書いた日記『灰するが可』を読む。蘆花に送ったら『灰するが可』とだけノートに書いて送り返してきたという。明治時代の青年の悩みが書いてあるのだが、つながる感じがあって十一時まで読む》
長いあいだ、『灰するが可』という本を探していた。実は、著者名も本の題名もまったくちがうことがわかった。
森卓夫は、出隆だったんですね。
「まんが道と古本」は次号も続く予定です。