十二月。日中の気温が二十度。温かい。一昨日はカイロを貼ってたのだが。
月曜日、荻窪。ささま書店のちタウンセブンで食材と調味料を買い、コーヒーを飲んで歩いて帰ろうかとおもったが、空が雲ってきたので、そのまま電車に乗る。
インターネットで「街道本」のことをしょっちゅう調べているせいか、アマゾンがすすめてくる本が街道関係ばかりになる。ネットがなかった時代に街道のことを調べるのは大変だっただろうとおもう。今はネットに出ていない情報を探すほうが大変な時代になった。
二十代のころは図書館に行って単行本の奥付の参考文献や書籍広告をひたすらメモした。絶版の本を買えるかどうかは一期一会の感覚があった。
「ちょっと高いな」とおもって棚に戻す。その後、何年もその本が見つからない。古書価も店ごとにまったくちがった。
品切になった文学展のパンフレットがネットの古本屋でけっこう買えるようになった。以前は苦労した。文学館にまだ在庫が残っていても、ハガキで申し込み、そのあとの支払いも面倒くさかった。
何もかも便利になればいいというわけではない。後になってふりかえると知りたいことを知るためにかけた時間や手間は貴重な経験におもえてくる。
昔は情報が少なかったおかげで「今、こんなことを調べているのは日本でひとりなのではないか?」としょっちゅう勘違いした。
その勘違いが自分の原動力になっていた。
たいていのことは誰かがすでに調べている。今はそういうことがすぐわかる。でも細かく見ると興味のあり方にしても調べ方にしてもすこしずつちがう。
はじめのうちは自分にはやることはないようにおもえても続けているうちに先行者と自分の「ズレ」が見えてくる。
斬新なアイデアだとおもったことが平凡だったり、逆に当たり前におもっていたことがそうでなかったりということもよくある。
「ズレ」を見つけるためには何にせよ「量」の道は避けて通れない。だけど、「量」に溺れてもいけない。わからないまま先に進まないと見えてこない。
そのあたりの匙加減はいつまで経ってもむずかしい。