2021/04/09

春の夜の夢

 あっという間に一ヶ月が過ぎる。プロ野球界も新型コロナが広がり、ひいきの球団を直撃する。先週末、野手の数が足りず、二軍の試合が中止になった。ケガ人続出で「ヤ戦病院」と揶揄されていたころをおもいだす。野球を観ていると、負けそうな試合を逆転したり、勝てそうな試合を落としたりというのは日常茶飯事だ。六回までリードしている試合を確実に勝ち切るのが難しい。今年は一試合一試合の勝ち負けを気にせず、のんびり野球を楽しみたい(昨年もそう考えていた)。

 昨日、寝る前に書くつもりでいたことを忘れてしまう。メモくらい残しておけばよかった。

《私は本を読む時には自問ばかりしているから、読むのが遅い》(『橋本治という立ち止まり方』朝日新聞出版、二〇一二年)

 橋本治にとって「面白い本」は「ものを考えさせてくれる本」だった。

《世の中や人のあり方の「多様化」が広がったのは、豊かさのせいかもしれない。しかし、ローカリティというものが生きていた時代、すべてはもっと「多様」であったはずだ》

 言葉が飽和状態というか供給過剰になっている。あらゆる表現がそうなっている。人間の一生の時間では読みきれない膨大な言葉がすでにあり、それが溢れ返り、増え続けていけば、どうなってしまうのか。

 話はズレるかもしれないが、たとえば「多様化」を訴える雑誌がどんどん「一元化」している。ウェブメディアもそうだ。インパクトのあるタイトルを付け、閲覧数を増やす。わかりやすく、読みやすく、結論をまず先に。一週間も考えれば、その結論はいくらでも引っ繰り返せる。しかしそのころ次の話題に移っている。

 今のわたしは話題の移り変わりを追いかける体力と気力がない。というか、面倒くさい。

 この話の続きはいずれまた。