竹書房文庫の装丁の雰囲気が変わっていい感じ(語彙不足)になっているのだが、新刊書店の文庫の棚のチェックを怠っていたせいで気づくが遅れた。眉村卓著、日下三蔵編『静かな週末』は帯も含めてすごくかっこいい。海外のSF作品もラインナップに入っている。
老舗の出版社がいつの間にか従来とはちがう傾向の本を出す。四、五年前まではそういう変化によく気づいた。自分の守備範囲外のジャンルの棚もなんとなく見ていたからだろう。
八木義徳著『文学の鬼を志望す』(福武書店、一九九一年)をインターネットの古書店で購入——。三十年前に出た随筆集だが、刊行時の記憶がない。大学時代は、ほとんど古本しか買わなかったから、新刊の単行本はほとんどチェックしていなかった。
「孤高の魅力」と題したエッセイが面白い。
新宿の居酒屋で五、六人の文学青年らしい若者が同人仲間の作品が「マスコミ」にのるかのらないかの議論をしていて、八木はその話に耳を傾ける。テレビやラジオで取り上げられ、映画化される。つまり「売れる」小説かどうか。
《私たちが文学青年であった時代は、その作品が、「うまいかヘタか」——それが作品の価値判断の主たる基準だった》
当時の八木は小説の芸もしくは技術を競っていた。しかし一時代前の先輩はそうした姿勢を不満におもい、「小説は技術ではないよ。魂の問題だよ」と忠告した。
《ある時代には「ほんとかウソか」が、ある時代には「美か醜か」が、ある時代にはその「階級性」が、ある時代にはその「社会性」が、ある時代にはその「主体性」が、またある時代にはその「民族性」が、そうしてまたある時代には……》
このエッセイの初出は一九五八年。六十年以上前のことだ。
わたしは十代の終わりから二十代にかけて、小説よりもいわゆる軽エッセイ(主に角川文庫)ばかり読んでいた。
ようするに、ちょっと不健康な怠け者、あるいは落ちこぼれの視点から世の中を見たり、人生を論じたりする文学を愛読していた。深刻な作品よりちょっとくずれたフマジメな作品が好きだった。
ある時代の「新しい価値観」もいずれ古くなる。
プロレタリア文学の隆盛期には「階級が描けていない」という理由で否定された作家がいる(貧乏作家の私小説が「ブルジョワ文学」と揶揄された)。いつの時代にも一つの基準で他の作品を否定する人たちは後をたたない。残念ながらその流行だけは終わらない。
(追記)「三十年前に出た随筆集」のところを「二十年前」と書いていた。訂正した。