たぶん秋花粉が飛んでいる。マスクのおかげでくしゃみ鼻水の症状はそれほどひどくないが、寝起き時に目がかゆい。寝起きの調子がわるいとすこし焦る。すこし前に神保町の一誠堂書店に行ったら棚の上のほうの本の背表紙の文字がまったく見えなかった。そろそろ眼鏡のレンズを交換の時期か。
八木義徳著『男の居場所』(北海道新聞社、一九七八年)の「小説家とは?」を読む。初出は一九七七年。
《小説家は眼がわるい。すくなくとも彼は自分の眼がわるいことを知っている。だからこそ、よく見ようとする。普通の人がさっと見てさっと行きすぎてしまうところを、彼は立ちどまって、じっくりそこに眼を当てる。それは“見える”のではなく、“見る”のだ。いや、もっと正確にいえば、それは“見よう”とするのだ》
こんな調子で「小説家は耳がわるい」「カンがわるい」「頭がわるい」と続く。いずれも含蓄のある意見が綴られている。
頭がいいといわれる作家の小説は「文体も構成も整然」としていて「まるで理髪店から出てきたばかりの頭を見るような感じがする」と……。言い得て妙というか、文章を整えすぎると言葉の熱が弱まる。このあたりの問題は小説家だけではなく、多くの読者もすっきりとしたわかりやすい文章を求めるようになったからかもしれない。
頭やカンのよしあしの問題でいえば、(そんなに考えなくても)すぐわかったり、すぐできたりすることって説明がむずかしい。
逆にいうと、表現の世界には躓ける才能みたいなものがある。目的地への最短ルートは一つだが、遠回りすれば無数のルートがある。わたしはぐだぐだした文章を書くのも読むのも好きなのだが、そのよさを説明するのがむずかしい。