ここのところ、ずっと「批評」について考えている。わたしの関心事は「大正の」「昭和の」あるいは「近代文学の」といった前置を必要とする「批評」である。「構造」やら「記号」やらで作品を分析したり、解読したりする「批評」に興味のある人からすれば、かなり「時代錯誤」かつ「ベタ」な「批評」といわれるかもしれない。
今では「批評」というジャンル自体、広く細かく分類されるような種類のものになっている。
その世界から一歩外に出ると言葉が通じなくなる。
それは「批評」の話にかぎったことではない。そもそも、むずかしくいおうが、わかりやすくいおうが、興味のないことには興味がない。
かけだしのフリーライターのころ、よく「印象批評」を書くなといわれた。そういわれて、はじめて自分の文章が「印象批評」と呼ばれる種類のものだということに気づいた。
「印象批評ってなんですか」
「つまり、感想文ってことだよ」
たしか、そんな会話をしたとおもう。
今のわたしなら「感想文のどこがいけないのか」と反論するだろう。
「批評」の効用のひとつは、従来の読み方とはちがう新しい見方を提示し、作品や世の中の理解を深めるといったような意義がある。
時代がすすむにつれ、「批評」は自分の生活や生き方に反映しない「知」のゲームのようなものになってきた。
そうした「批評」にも読む快楽がある。読んでいると、複雑な世界が単純明解におもえてくる。
時間が経つと、それが錯覚にすぎないこともわかってくる。
自分の言葉の通じやすい世界から抜け出すこと。
わかる人にわかればいい(長年、わたしはそうおもっていた)という考え方をあらためること。
《批評は、非難でも主張でもないが、また決して学問でも研究でもないだろう。それは、むしろ生活的教養に属するものだ》(「批評」/小林秀雄『栗の樹』講談社文芸文庫)
小林秀雄は、今(というのは一九六〇年代半ばくらいのことだけど)の批評表現は複雑多様になっているが、それは批評精神の強さ、豊かさの証ではないという。批評家は「批評の純粋な形式」を心に描いてみるのは大事だといい、「自分のうちに、批評の具体的な動機を捜し求め、これを明瞭化しようと努力するという、その事にほかならない」ともいう。
なにをどう批評するのかをかんがえる前に、なぜ批評するのか、そこから考える(心に描く)必要がある。
(……続く)