仕事が一段落。
天野忠の『そよかぜの中』(編集工房ノア、一九八〇年刊)を読み返した。
この本は気持と生活を立て直したいときに読みたくなる。
《「余韻の中」につづく私の二番目の随筆集である。(中略)余韻といい、そよがぜといい、自分という頼りなげな存在の何かが、その中に浮いている気分である。いつでも本筋のところをはずれて、弱虫は弱虫なりに、どうにかこうにか生きてきた、生かされてきたことの不思議さに、ときどきぼんやりすることがある》(あとがき)
わたしは天野忠と身長、体重がほぼ同じで、平熱が三十五度台という共通点がある。寒い日と風の強い日が苦手というところも同じだ。それだけなんだけど、わたしには大事なことである。
ただ、東京住まいでは天野忠のようなのんびりした暮らしはむずかしい。
先日、三十歳前後の知人と話していたら、上司に「すぐ結果を出せ」といわれ続けているらしく、かなりまいっていた。
わたしも困ったおぼえがある。
結果を出したくても、機会をあたえてもらえない。機会をあたえてほしいというと、経験がないからだめだといわれる。
どないせいという話である。
ヘタに能力のある人が、結果を出せない立場にいると自分を責めてしまう。
適当に怠ければいいのだが、その余裕がない。
怠け方を知らなかったせいで、有能なのに仕事をやめてしまった人を何人も知っている。
怠けるというのは、手をぬくということではない。やりすごす、といったほうがいいかもしれない。
仕事上の権限が何もないのに、結果を出せというのは無茶な要求なのである。
そういう時期は力を蓄えることに専念したほうがいい。
適当にやりすごして、自分をすり減らさないようにする。
当然「あいつはつかえない」とか「怠け者だ」とかいわれる。
ただ、齢をとってからいい仕事をしている人は、(若いころ)そういわれていた人が多いのも事実である。
権限がないうちは無責任でもかまわない。
責任はちゃんと力を発揮できる場についてから持てばいい。
場を自分の力で勝ち取ることができればそれにこしたことがない。でもそれが非常に困難な状況もある。
その場合、「本筋のところ」をはずれてみるのもわるくない。「逆風」を避け、「そよかぜ」の吹いているところを探す。
若い知人にはそういうことがいいたかったのだが、うまくいえなかった。