どこにも行かず、酒飲んで寝ているうちに、夏休みといえるような期間が終わってしまった。
新しい知識を仕入れなくても、それなりにこれまでの蓄積と応用で生きていけるのではないか、というような錯覚に陥ることがある。ただし、蓄積と応用に甘んじていると、ある時期、ぱたっと文章が色あせる。文章がパターン化し、書けば書くほど、みずみずしさを失う。
いっぽう書くことで自分の意識が変わった(ような気がする)という経験もこれまで何度かある。自分の書いた文章だけでなく、引用するために書き写した文章も含めて、言葉にひっぱられるような形で、すこしずつ、感覚や考え方が変わる。すぐにはその変化はわからない。すこしずつわかる。
《文章の結論がどこへ行くかわかってしまえば、自分でもおもしろくないですね。だからわかっていることはぼくはけっして書こうとは思わない。どうなるか楽しみなんだな。そのかわり、書いていくことと考えることがいっしょなんですよ。ぼくなんか書かなくちゃ絶対にわからない。考えられもしない》(「教養ということ」/『小林秀雄対話集』講談社文芸文庫)
田中美知太郎との対談で六十歳をすぎた小林秀雄はこんなふうに語っている。
正解があるクロスワードパズル(ナンクロなど)にしても、当てずっぽうで升目に言葉をいれていくことでしか、次の言葉は見つからないようにできている。まちがえても、しばらくすると、つじつまがあわなくなることで、その言葉が不正解であることに気づく。
わたしが考える「批評」、あるいは「生活的教養」もそうしたパズルの解き方にちかいかもしれない。パズルもやっているうちに、ある種のパターンがわかってくる。わかるとすぐ解けるようになる。すぐ解けると、つまらなくなる。
ひょっとしたら、つまらなくなるのは、パターン化のせいかもしれない。生活のパターン化、仕事のパターン化、趣味のパターン化。パターンには、一定したパターン、変動するパターンがある。さらにパターンをどう変えていけばいいのか。あるいは変えないほうがいいのか。変えるとすれば、どのくらい変えればいいのか。
小林秀雄と田中美知太郎の対談は、再読するつもりもなく、なんの気なしに再読した。そして(あくまでも自分にとっての)重要な問いに気づいた。
《小林 このごろは、ひところのように、いろんな条件をはっきり記憶して、ひとつの問題を考え抜くことが億劫になりましてね。考えるということは文体(スタイル)で考えるわけなんだけれども、なにかその辺で工夫はないものかと思っているんですけれど……
田中 文章の問題といえば、プラトンの場合なんかも、六十歳くらいで文体がガラッと変わりますね》
ふたりの対談は文体の話からはじまっている。
さらに田中美知太郎は、「自分の文体があって、考えることがその文章の枠内に納まっちゃう。考え方を変えようと思っても、自分の書きなれた文章で考えるほうが楽なんだから」とも語っている。
書きなれた文章というのもひとつのパターンである。そのパターンができあがるのには時間がかかる。時間をかけて作ったパターンを変えることは容易ではない。パターン自体に愛着があるし、自分の感覚や生理と不可分なものになっている。
しかし、すぐに行き詰まってしまうような文体では、なかなか「ひとつの問題を考え抜く」ことができない。
その後、小林秀雄が『本居宣長』を十数年にわたって書き続けることになるのだが、この執筆は「ひとつの問題を考え抜く」文体を作るための実験という意味合いもあったのではないか。ふとそんな気がした。
「批評とは何か」について考えているうちに、「文体とは何か」という問いが出てきた。
書きはじめたころから、「その十」を区切りにやめようとおもっていた。どんどん収拾がつかなくなってきている。
とりあえず今回でこのシリーズは完結する。続きは、タイトルを変えて、ときどき書くことになるとおもう。
しりきれとんぼ、あしからず。