飯田泰之、雨宮処凛著『脱貧困の経済学』(自由国民社)という本を読んだ。
経済学は、ある種の倫理の問題をふくんでいる。とはいえ、潔癖な理念が通用するほど、甘くない世界であることもわたしの中では動かし難い実感になっている。大雑把に、清濁あわせもちながら「わるいようにはしない」というくらいが、落とし所なのではないか。
この対談本では「個人が安心して暮らし」「様々な可能性へのチャレンジ」をすることができる「再配分政策」(最低賃金の引きあげやベーシックインカム)について語られている。
読みながら「さすがにそれは無理だろう」とおもう箇所はいくつかあったけど、「無理だろう」とおもってしまう自分は、なぜ「無理だ」とおもってしまうのか、もう一巡してかんがえさせられる本だった。
ものすごく簡単に図式化すれば、若い人が職につけず、働いても働いても貧乏にあえいでいる中、豪華客船で世界一周の旅をしているような裕福な高齢者がたくさんいる。もちろん、若者がわるいわけでもなく、自分が働いてきた貯めた金と年金で旅行をする高齢者がわるいわけでもない。
でもなんとなく、釈然としないものがある。
経済の話からズレるかもしれけど、飯田さんの「失敗するのも成功するのも、努力と運が半々ぐらいだということを、みんながもうちょっと理解しないといけない気がするんです」という言葉は、ほんとうにそうだとおもった。そうした意識なくして「公平な分配」を制度化するのはむずかしい。
人々の意識を変えることは制度を変えるよりも厄介である。
その困難をふまえた上で何ができるのか。
はっとさせられたのは「人間はほっといても何となく器用になってしまう。仕事に慣れてしまう」ため、個人レベルでは「足るを知る」みたいな感覚でもなんとかなるのかもしれないが、ある程度は経済成長がないとかならずどこかにしわ寄せがいくという話。
切実な問題を論じつつも、新鮮な知見が随所にちりばめられている。
《「財源はどこにあるんだ!」は質問封じとしては非常によくできています。
しかし、「財源はどこにあるんだ論」には大きな見落としがあります。どうしても必要なこと、それによって社会を大きく改善していける政策ならば、財源は「作るもの」のはずです》
一見、絵空事におもえるような議論の中に、希望の種を見出すことができた。