昔から生活費にあたる仕事は別にもちながら、文章を書いている人はたくさんいる。
わたしの恩師のルポライターの玉川信明さんは、専門学校の講師をしたり、弁当屋の仕出しをしながら、本を書いていた。
天野忠は大学の図書館で働いていた。
十二年くらい断筆していた時期もある。
中村光夫が戦前の文士は、みな借家に住んでその日暮らしで、金はなかったけど、「爽やかな貧乏」だったと回想している。
出版不況とはいえ、今、刊行されている本や雑誌が半分くらいになっても、困るのはその世界で仕事をしている人間(わたしもふくまれる)だけで、印刷物は氾濫し、むしろ供給過剰といえる状態にある。
最近、「わかりやすいもの」を書いてほしいといわれることが増えた。センテンスを短く、文章量も少なく、活字は大きく。
ふだん活字を読まない人に買ってもらうには、どうしてもそうなる。いいことなのかどうか。
山本夏彦のエッセイを再読する。次のような文章を見つける。
《読者は登山に似ているといわれる。登るに困難な山でなければ、それは登るに値しない。難解な字句につまずきながら、ついに理解に達して、はじめて読書である。山登りに似ているといわれる所以である》(「この国」/山本夏彦著『日常茶飯事』中公文庫)
古本の話もあった。
《だから私は、古本と古本屋の味方をしたい。古本の版元は、古本の著者と共に故人である。どんなつまらぬ本でも、ここは客が主人公で、自分ひとりでさがしに来る。
そこには、書物がまだこんなに売れなかったころの、つむじの曲った著者たちの、つむじの曲った発言が、稀にあるのである》(「本屋」/同書)
外市二日目、行きます。補充もします。
起きることができたら……。
(追記)
起きることできず、夕方に……。