睡眠時間がズレる日々が続く。かれこれ三十年くらい、そういうかんじの生活を送っているので慣れたといえば、慣れた。こうした生活習慣が今の仕事を決めるときの大きな職業選択の基準になったことはたしかだ。
好きなときに寝て起きることが許される仕事なんてそうはない。不安定な生活と天秤にかけてもお釣りがくる。
とはいえ、昨今の不景気を考えると、今、自分が学生だったら、就職する道を選んだかもしれない。食えるかどうか何の保証もない仕事を選べるかといえば、自信がない。
わたしの学生時代はバブルの時代だったから、いざとなったらアルバイトをすれば、自分ひとり分くらいどうにかなると甘く考えていた。
どんな仕事でもやってみないとわからないことだらけだ。フリーライターをやっているうちに、校正やらテープおこしやら資料調べやら原稿を書く以外にも細々とした収入を得られることを知った。堪え性がなかったら、いろいろな出版社を転々とした。どこにいっても、また一から下積みをしないと先に進めない。そのことも転々としているうちにわかった。もっと早く気づきたかったとおもうが、そういうことは経験してみないとわからない。でも転々とした経験も、自分の向き不向きを知る上では無意味ではなかった。
何度か失業および無収入状態を経験した。何度も味わいたいものではないが、怖れていたほどのものではないというのが実感だ。
仕事の合間、岡崎武志著『あなたよりも貧乏な人』(メディアファクトリー)を読んだ。
《貧乏に負けて、小さく縮こまっていく者もあれば、そこで鍛えられて、なにごとも「全然ヘッチャラ」と思える者もある。人間次第、ということだ》
そのちがいはどこにあるのだろう。この本に登場する貧乏経験者は世間の基準ではなく、自分だけの基準を持っている。その基準は世間一般の基準からすれば、「ズレ」ている。しかし「ズレ」をなくすことが、かならずしもその人の幸せにつながるわけではない。一区切りついたら、このテーマについて、もうすこし考えてみたい。