金曜日、西部古書会館。初日の午前中に行く。
気長に探すつもりだったジョージ・ミケシュの『これが英国ユーモアだ』(中村保男訳、TBSブリタニカ、一九八一年)があった。二百円。ミケシュの翻訳本で読みたかったものはこれでほぼ揃う。
ミケシュの本にかぎらず、英米のコラムやエッセイは、ビジネス書や自己啓発書みたいなタイトルの本(例:ジョージ・マイクス著『不機嫌な人のための人生読本』ダイヤンモンド社)が多く、古本屋のどこの棚にあるのか見当をつけにくい。この見当がつかないまま本を探している時期が楽しいともいえる。未開拓の領域が広がっているかんじがすると、古本屋通いにも熱がはいる。もちろん未開拓であれば何でもいいというわけではなく、何かしらのフックがないといけない。
日頃、ぼんやり考えていることが、こんがらがって、形にならないまま、自分の中に沈殿している。ところが、ある本を読んだ途端、沈殿していたものがかきまわされて、もういちど考えてみようという気になる。考えがこんがらがるのは、わたしの問題点の立て方がズレているからだろう。とくに正論と自分の思考との“ズレ幅”を把握できていないときに混乱しやすい。
ジョージ・ミケシュはそうした世間と自分との“ズレ幅”をよくわかっている気がする。正論や常識からすれば、間違っているとおもわれる意見や主張でも、直せばつまらなくなるところは直さない。他人からすれば、欠点であっても、それがあるおかげでもの考えたり、文章を書いたりすることもある。ミケシュのエッセイやコラムは、理路整然とした文章から導き出せない結論に辿り着くことが多い。しかも結論付近でお茶をにごす芸(煙に巻く芸)が素晴らしい。
ミケシュは、ユーモアには、よいものとよくないものと謎がふくまれているという。
《よいのは、ユーモアが面白いということで、悪いのは、ユーモアが攻撃的性格を帯びていること、謎なのは、いったい、私たちは何がおかしくて笑うのかということなのである》(「ユーモアとは何か」/『これが英国ユーモアだ』)
ユーモアについて論じた一文だが、ミケシュの考え方は、善悪の分別よりも、答えが出ない謎に向かう。否、わざわざ謎を探しているといったほうがいいかもしれない。わたしが読みたいのは「いいかわるいか」という議論を混乱させる謎に充ちた本である。でもなかなかそういう本は見つからない。