2010/07/06

謎の提示

 金曜日、西部古書会館。初日の午前中に行く。
 気長に探そうとおもっていたジョージ・ミケシュの『これが英国ユーモアだ』(中村保男訳、TBSブリタニカ、一九八一年刊)があった。二百円。ミケシュの翻訳本で読みたかったものはこれでほぼ揃う。

 ミケシュの本にかぎらず、英米のコラムやエッセイは、ジャンル分けすると、けっこうビジネス書や自己啓発書みたいなタイトルの本(例:ジョージ・マイクス著『不機嫌な人のための人生読本』ダイヤンモンド社)が多く、古本屋のどこの棚にあるのか見当もつかない。この見当がつかないまま本を探している時期が楽しいともいえる。

 未開拓の領域が広がっているかんじがすると、古本屋通いにも熱がはいる。もちろん、未開拓であれば何でもいいというわけではなく、何かしらのフックがないといけない。

 日頃、ぼんやり考えていることが、こんがらがって、形にならないまま、自分の中に沈殿している。ところが、ある本を読んだ途端、沈殿していたものがかきまわされて、もういちど考えてみようという気になる。
 考えてこんがらがるのは、わたしの問題点の立て方がズレているのだとおもう。とくに、正論と自分の思考との“ズレ幅”のようなものを把握できていないときに、こんがらがりやすい。

 ジョージ・ミケシュは自分の“ズレ幅”をよくわかっている気がする。正論や常識からすれば、間違っているとおもわれる意見や主張でも、直せばつまらなくなるところは直さない。
 他人からすれば、欠点であっても、それがあるおかげでもの考えたり、文章を書いたりすることだってある。ミケシュのエッセイやコラムは、理路整然とした文章で結論の出ないことを書く。
 しかし結論付近でお茶をにごす芸(煙に巻く芸)が、素晴らしいのである。

 ミケシュは、ユーモアには、よいものとよくないものと謎がふくまれているという。

《よいのは、ユーモアが面白いということで、悪いのは、ユーモアが攻撃的性格を帯びていること、謎なのは、いったい、私たちは何がおかしくて笑うのかということなのである》(「ユーモアとは何か」/『これが英国ユーモアだ』)

 ユーモアについて論じた一文だが、ミケシュの考え方は、善悪の分別よりも、答えが出ない謎に向かう。いや、あえて、わざわざ謎を探しているといったほうがいいかもしれない。

 常々、わたしが読みたいとおもっているのは「いいかわるいか」という議論を混乱させる謎を提示してくれる本である。でもなかなか見つからない。