2010/07/19

限度の自覚 その二

 中村光夫の回想記を読んで、「考えなければならないこと、あるいは考えすぎてはいけないこと」があると書いた。

 十代、二十代で熟練作家の佳品をいろいろ読んでいるうちに、自分は書けないとおもったり、自分のやっていることが無意味におもえたりしてしまうことがある。

 今は昔よりも情報量が増えて、あっという間に検索でわかる。便利な反面、どんなにマイナーなジャンルであっても、上には上がいることもすぐわかってしまう。

 中村光夫の場合でいえば、同時代に小林秀雄がいた。フランスにいた中村光夫は小林秀雄に長い手紙を書いた。
 何をどう書いていいかわからなくなったときに、尊敬する先輩に手紙を出すような気持で文章を書けばいいのではないかと気づく。その結果、あの「です調」の文体になった。

 誰に向けて書くか。別に特定の個人でなくてもいい。漠然とでもいいから、伝えたいという気持がないと言葉が冷めてしまうような気がする。

 話はズレるが、わたしが二十代のころは「若者を啓蒙しなければいかん」という使命感をもった編集者がけっこういた。
 いつの間にか、そういう考え方は時代遅れといわれるようになった。とにかく売れるものを作らないといけない。

 理想がなくなると、退廃をまねく。
 退廃すると、戦わなくなる。
 何をいっても無駄。仕事は仕事と割りきる。おかしいなとおもうことがあっても、文句ばっかりいってると干される。そうこういっているうちにだんだん無気力になる。

 不毛な戦いをするひまがあったら、自分の好きなことをやったほうがいいのではないかとおもったことがある。
 趣味や生活をないがしろにすると、それはそれで退廃するとおもうからだ。

 昭和十八年、日本の戦況が悪化するにつれ、日常生活がだんだん乏しく、不潔で、不便になっていった。
 中村光夫は、そうした生活にだんだん馴らされ、むしろ当り前のようにおもうようになったという。

《そのくせ一杯の酒、一碗の飯にもがつがつし、身体から脂気や力がぬけて、芯から働く力がなくなり、なるべく怠ける算段をするという風に、国全体がどことなく囚人の集団に似てきました》(窮乏のなかで/『憂しと見し世』)

 戦時中ほどの窮乏ではなくても、先が見えず、まったく成長の感覚が味わえない仕事をしていると、「芯から働く力」がなくなってくる。

 今、そういう職場、増えているのではないか。
 でもそこから抜け出したところで、そう簡単には食っていけない。

(……続く)