2010/07/17

限度の自覚 その一

 ふと中村光夫、来年、生誕百年だということに気づく。一九一一年二月五日生まれ。
 この何年か、中村光夫の『今はむかし ある文学的回想』、『文学回想 憂しと見し世』(いずれも中公文庫)をくりかえし読んでいる。
 たんなる趣味や教養をこえた、大事なことが書いてあるような気がするのである。今の自分が考えなければならないこと、あるいは考えすぎてはいけないことが……。

 戦前戦中の文壇において、中村光夫は日本の戦争と関係ない文章を書いていた。当時のことをふりかえり、「芸術の仕事は、何かの意味で、いい気にならなければ、出来ないものかも知れません」という。

 そしてそのころの作品には、若くなければ書けない、ひたむきなものがあったと分析している。

《書きたいという欲求だけで、作品が出来るものではない以上、力の配分は、スポーツの試合におけると同様、芸術の制作に重要でしょう。
 しかし自分の力を計る能力が発達すると同時に、制作の野心が減退することも事実です。芸術家の幸福とは、無謀な野心の適宜な衰えと、限度の自覚による能力の充実とが、ちょうどある調和点に達したとき、決定的な制作の機会に恵まれることです》(「文学界」と「批評」/『文学回想 憂しと見し世』)

 目の前の仕事と将来の仕事、どちらも大事な仕事であり、手はぬけないが、時間には限りがある。
 自分を律し、無理のなく、破綻しない形で、文章を書こうとする。そうすると、ひたむきさを失う。
 いっぽう昔と比べて、今はいい気になったり、調子にのったりすることへの批判が、厳しくなっている。
 その結果、文学にしろ音楽にしろ、抑制のとれた隙のない作品のほうが評価されやすくなる。
 無謀な野心と限度の自覚。この両極に針をふりきることなく、行ったり来たりするのが理想なのかもしれない。

 わたしの場合、自分の力を省みず、勘違いとおもいこみとそれなりの情熱をもって、将来の進路を決断した。当然のように、壁にぶつかり、食うや食わずの時期を経て、だんだん高望みしなくなった。

 しかしそれだけではつまらない。
 自分の力以上のことに取組むことを避けてしまうようになるからだ。

 無謀な野心をもった大人と知り合うことは、ほんとうに大事だ。無謀な半生をすごしてきた人を見ると「これでいいんだ」「まだまだいける」とおもう。
 
 五日連続、ペリカン時代で飲む。