三木卓著『雪の下の夢 わが文学的妄想録』(冬花社)を読んだ。今年二月に刊行されていたのだが、まったく気づかなかった。
「ふぉとん」という文芸誌に書いたものを中心にまとめたもので、わたしはその雑誌のことも知らなかった。
この本のあとがきを読んでいたら、その文芸誌を「自分にもよくわかっていないことを考える場にしよう、と思った」と記してあった。
「現場をめぐって」「今の文学について」「批評について」といった文学エッセイもおさめられている。
宮沢賢治は、没後、その作品が見出され、今なお読みつがれている。しかし同時代の文化にかかわることはできなかった。
《いうまでもなく、それは作家の責任ではない。作家は内心の声にしたがって書くよりない。精一杯仕事をしたとき、それが無人島に生まれついて、そこで一人で生きたのではないかぎり、必ず時代と社会にかかわるものとなるはずである。それに、どう現在の読者がプラグを接続することが出来るか》(現場をめぐって)
この文章は、自分の中でくすぶり続けている不安定な気分をすこしだけ和らげてくれた。
誰もおまえのことなんか知りたくない——そうおもう人が大多数であることを前提に文章を書いている。
とはいえ、わたしが好んで読んでいるのは、いってもしょうがないようなことが書いてある本なのだが。
わたしも「自分にもよくわかっていないこと」を考えようとおもいながら、文章を書くことが多い。小学校高学年くらいのころからそうしていた。書かないと考えることができない。
癖であり、習慣であり、職業病である。
仕事の場合、なるべく読みやすくしよう、できればおもしろくしたい、とおもいながら書くよう心がけている。
その技術が身につけば、考える幅も広がるということはあるかもしれない。
すこし前にペリカン時代に行ったら、カウンターの上に三木卓のエッセイ集と同じふぉとん叢書の東賢次郎著『レフトオーバー・スクラップ』という短篇集があった。昔、旅先で知り合った人が書いた本だと聞いた。飲みながら読んで、冒頭から引き込まれ、圧倒される。現実と非現実のまざり方が色川武大みたいだなともおもった。
どうしてこんなにすごい作品がもっと話題になっていないのか不思議でしかたがない。
元編集者で今は京都でミュージシャンをしているらしい。