2010/07/22

限度の自覚 その三

 考えがとっちらかっている。「芸術の仕事は、何かの意味で、いい気にならなければ、出来ないものかも知れません」という中村光夫の言葉をもういちど考えてみる。
 三十歳か、それよりちょっと前くらいから、いい気になっていられる時間がだんだん減ってきた。
 かならずしも自分が正しいとは限らない。謙虚であることも大切だ。しかし気がねばかりしていると何もいえなくなる。

 中村光夫のいう「無謀な野心」と「限度の自覚」は、芸術の仕事にかぎらず、何か新しいことに挑戦するときに突き当たる問題かもしれない。自分の力を計る能力が発達しすぎると、ひたむきさが失われてしまう。ほんとうは未知数な状態なのに早い段階で限度を自覚してしまうのは、もったいない。
 なぜ「無謀な野心」を持つのか。錯覚か。勘違いか。「無謀な野心」は自分の伸びしろを信じる気持もふくまれている。
 今はうまくできないかもしれないけど、きっとできるようになるという根拠のない確信……そういう確信はすごく大事だ。でも大人になるにつれ、そういう確信をもちにくくなる。

 たとえば、店をはじめる。何年も修業し、十分貯金をして、万全な状態でスタートを切れるにこしたことはない。
 自分が好きな店、あるいは好きな店主はそうした計画性があまりない人のほうが多い。
 見切り発車。いきなりピンチの連続。その結果、修羅場をくぐり、しなくてもいい苦労をいっぱいして、あっという間にいろいろなことを学ぶ。

 もちろん、まったく泳げない人がいきなりドーバー海峡を横断しようとすればまわりは止めるとおもう。
 今の自分がどのくらい泳げるのか。もっと泳げるようになるためには何が足りないか。溺れないためにはどうすればいいか。そうした試行錯誤をしているうちに「限度の自覚」につきあたる。
 あるとき自分は速く泳げないことに気づく。それで自分の好きなところを自分の好きなように泳げばいいんだと開き直る。

「無謀な野心」と「覚悟の自覚」の調和点というのは、そういう状態なのかもしれない。

(……まだ続く)