2011/12/17

浮かれ楽しむこと

……色川武大著『唄えば天国ジャズソング』(ちくま文庫)を読んでいたら、「アム・アイ・ブルー?」の冒頭の文章に目が止まった。

《今年の正月は私にとって、ジャズで明け暮れた。暮に私の師匠の藤原審爾が亡くなって、沈痛な気持になっていたので、浮かれ楽しむ機会があって救われた。哀しいから、浮かれられないということはない。浮かれているから、哀しくないというのでもない》

 沈痛な気持になったら、楽しんだり浮かれたりしてバランスをとる。
 無意識のうちに、わたしもそうしている。
 でもそのことにどこか後ろめたさがあった。
 単なる現実逃避ではないかと。
           *
 というわけで、本題にはいる。

Genpatsu 福島原発事故に関する海外メディア報道」というサイトがある。国内のメディアとはちがった視点から原発のことを考える上で、ずいぶん参考になる。
 中でも「福島の惨事:未だ何も終わってはいない」(ジョナサン・ワッツ記者)という英ガーディアン9.9付記事は出色のものだとおもった。

《他の国々では、人々は放射線源からの距離をもっと遠くしたいと思うかもしれないが、それは人口密度が高く雇用が固定している島国では困難だ。それにもかかわらず何千人もの人達が移住したが、しかし震災地の殆どの人々は留まり適応しなければならない。それも科学者や政治家から明確なガイダンスがあれば少しは容易になるだろうが、しかし、この点においても現代の日本は特に脆弱なようだ。最近、日本の首相は5年間で7回変わった。学者達とマスメディアは原子力産業界の強力な影響力によって腐敗している。その結果、体制に順応することで有名な国民が、突然、何に順応すればよいのか確信が持てなくなった》

《「食べて安全なものは何なのか、どこなら安全に暮らせるのか、政府がはっきり言わないので、個々人が決断することを余儀なくされています。日本人はそういうことが不得意です」と、臨床心理学で著名な高橋智氏は述べている。彼は、福島のメルトダウンの精神面への影響は、身体的な直接の影響より大きいだろうと予想している》

 昨日、福島第一原発が冷温停止状態になったという宣言があった。ただし、安全な状態とはほど遠いというのが大方(海外の通信社など)の見解である
 安全か安全でないかは確率の問題だから、ある人は大丈夫で、ある人はそうでないということも起こりうる。

 この記事のロシア人医師のコメントに「影響を受けた地域の人々は健康と生活状態に対する自己評価が極端に否定的で、自分の人生がコントロールできないと強く感じています」というものがあった。

 わたしが知りたいのは「人口密度が高く雇用が固定している島国」で「震災地の殆どの人々は留まり適応しなければならない」状況下におけるしのぎ方だ。

《一方では、運命とあきらめている人達を見つけるのは難しくない。何人かは放射能より、ストレスと激変のほうがリスクが大きいと述べている。意見の食い違いは家族、世代、そして共同体の分割をもたらした。「留まるべきか、避難すべきか?」という問いが無数の人々に重くのしかかっている》

 今いる場所に「留まる」という選択をした以上、心配しすぎることについても考えないといけない気がしている。
 電力会社に利する意見と受け取られるのは本意ではない。わたしは経済の停滞をまねいたとしても再生可能エネルギーへの転換を支持したい。でもそれと原発事故のストレスの問題は別だ。

 原発事故の収束までの道のりは険しい。  
 心配性の人(わたしも)に心配するなといっても無理だろう。
 だからこそ、心配しつつも、浮かれたり楽しんだりして心のバランスをとることの大切さも忘れないようにしたい。

 それは諦めや開き直りではなく、生きるための知恵である。