……高円寺のショーボートで開催された「ギンガギンガvol.6」に行く。出演はペリカンオーバードライブ、しゅう&トレモロウズ、オグラさん。素晴らしかった。午後六時半から朝の五時まで飲んで、昼すぎまで寝る。
求道型というか、年月を重ねて、渋く巧くなるという方向性だけではなく、新鮮さや楽しさを追い求めたり、どんどん独特で変になったり(どのバンドがどうということではなく)、ミュージシャンにはいろいろな道があるなあとおもった。
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文章を書くときに「伝えたい」という欲求と「考えたい」という欲求があるのだけど、今は後者の時期なのかもしれない。
「考えたい」ときの文章は、どうしても重くなりがちで、行き詰まりやすい。
でも行き詰まる経験を積み重ねることも、何かの足しにはなっている気がする。
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二十代のころ、古山高麗雄さんの『身世打鈴』(中央公論社)を読んで、どんどんわからない、書けない方向に進んでいくような文章に魅了された。
《私たちは、過去を思い出しているつもりでいて、実は、思い出せないのかも知れないのだ。思い出せない状態が続くことで、過去は失われているのかも知れないのだ》
二十代半ば、仕事を干されて、まったく書いていなかったころ、古山さんは「そのときでないと書けないことがあるから、どんどん書いたほうがいいですよ」といわれたことがある。
《多かれ少なかれ、人は恰好づけなしに自分を語ることはできない。その恰好づけに誤謬や錯覚を加えて、人は自分を語る。身上話とは、しょせん、自分だけにひそかに聞かせる自慰的な詠歌である。しかし、恰好づけと思い違いに充ちた他人の自慰的な詠歌を懇切に聞いて、その詠歌の底で鳴っている鈴の音を聞きださなければならないのだと思う》
言葉の中に「鈴の音」を聞く、あるいは鳴らす。
この「鈴の音」は何なのか。古山さんは自問自答をくりかえす。
わたしもなんとなくそういうものがあるということしかわかっていない。
たぶん「鈴の音」は人によって聞こえたり聞こえなかったりする。人によって聞こえる「音色」がちがうこともある。
その日の体調や得手不得手によって「鈴の音」を聞き逃してしまうこともある。
三十代前半で音楽ライターの仕事を辞めたのも、自分の好きなジャンル、ミュージシャン以外の「鈴の音」を聞き取れなくなってしまったからだ。好きなものはどんどん好きになるのだけど、好きになれるものが狭くなってしまった。
自分には聞こえないけど、聞こえる人には聞こえる。批評は、ちゃんと「鈴の音」が聞こえる人が書いたほうがいい。
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そんなことをうつらうつら考えていたら、前田和彦さんから磯部涼著『音楽が終わって、人生が始まる』(アスペクト)が届いた。前田君が編集者の卵かそれ未満くらいのときから、ずっと著者の文章が好きだということを聞いていた。
第三章の前野健太評から読みはじめた。「鈴の音」が聞こえる人が書いた文章だとおもった。
言葉の奥に「静かな熱い問いかけ」がある。
それは「音楽」というジャンルにおさまり切らない、「人生」あるいは「世界」にたいする問いかけだろう。
二〇〇〇年代の音楽をほとんど通りすぎてきたわたしにもその問いかけは深く響いた。